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エロマンガ夜話第37話 F4U『修学旅行99日目』

毎回1つの成人向けマンガを選んで語り尽くすツイキャスエロマンガ夜話。
 3/19の第37回放送では、F4U先生の『修学旅行99日目』を、レギュラーメンバー

新野安@atonkb
ひかけん@hikaken
と、ゲストのはんぱーさん

で語りました。



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 ログはこちら。

 その1(放送事故により最初の3分30秒ほどが無音になっております)
 その2
 その3


 キーワード:「語り」によるライトさの演出/アニメっぽいキャラデザとパーツの肉感/『〇学生と、しっぽり犯ろお!』/『委員長はボッコボコ』/卵子出現/チンコと陰毛のアンバランス/象徴としてのチンコ/ナレーションとストーリーの距離感の変遷/アノテーションとしての小さいコマ/少女漫画


次回は4/9 23:00より、犬先生の『初犬』を扱います。

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オール・ユー・ニード・イズ・セックス――アシオミマサト『クライムガールズ』

2017年にティーアイネットから発行されたアシオミマサトの単行本『クライムガールズ』は、9月14日をずっとループし続ける男の話である。
むろん、猫も杓子もトムクルーズも時の輪の中を回り続けているこのテン年代において、いまさらループ物などと言われても驚きはない。むしろ今更感すら漂う。

だが、そのループを始めるトリガーが膣内射精だったらどうだろうか?
つまり、『クライムガールズ』は、エロ漫画でありながらループもの漫画なのだ。しかも、ループものであることとエロ漫画であることは、本作の中で単に並列されているのではない。『クライムガールズ』には、「エロ漫画×ループ漫画」という組み合わせによってのみ実現可能な美的達成(面白さ)がある。となれば、ゲーム的リアリズムを日々サヴァイヴする我々にも驚くべき理由はあるだろう。



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・あらすじ


『クライムガールズ』の主人公・ハルは、9月14日を何度も何度も繰り返している。
彼は繰り返される14日の中で必ず、ある女性の後ろめたい行為――犯罪や不倫――の現場に立ち会う。ハルはその現場を押さえ、女性を脅し、セックスに持ち込まなければならない。
そして無事、膣内射精に成功すると、彼は今のループから抜け出し、新たなループに突入する。次の9月14日が始まり、ハルはまた別の犯行現場に飛ばされ、新たな女性と出会う。いわば次のステージに進むわけだ。


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↑ループはセックスによって突破できる



なぜ自分はこんなループゲームに巻き込まれることになったのか。その謎を解き正常な時間に戻るため、ハルは次々に膣内射精を続けていく――以上が本作のあらすじである。

あまりにも馬鹿馬鹿しい設定なのでコメディのように聞こえるかもしれないが、本作はあくまでシリアスなSF作品として描かれている。例えば、膣内射精がループを抜けるトリガーであることにも後できちんと説明がつき、ある人物にとっての非常に切実な事情があったことがわかる。実用目的で手に取った読者も、だんだん本作の豊かなドラマ性に引き込まれていくことだろう。



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↑本作ではタイムリープの象徴として蝶が使われているが、これは映画『バタフライ・エフェクト』を暗示している。とある重要な展開がこの映画から引用されているのだ



・ループ設定の二つのポイント



では、冒頭で述べた「美的達成」について詳しく説明しよう。
あくまで私見に基づく仮説だが、ループ設定が漫画やアニメや映画の物語に対して持つポイントは、以下の二つに要約できる。


・再現性
・別様可能性



再現性とは、「初期設定が同じであるならば、同じことが起こり続ける」ということである。一方で別様可能性とは、「今起こっている出来事のあり方の背景には、別の様々な可能性が存在する(した)。この現実はその中の一つに過ぎない」という視点・感覚である。ループものにおいては、決められた時間の中で同じ出来事が起こり続ける。しかし主人公が初期設定に対して手を加えてやることで、出来事は上書きされ、毎回違った進展を見せていく。この「同じ」と「違い」のペアがループものの本質である。

ループものの傑作の多くは、この二点をうまくドラマの面白さにつなげている。
例えば『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(映画版)のトムクルーズは、ループし続ける世界のあり方や敵の動き方がいつも全く同じであることに気づき、それを暗記することで、「覚えゲー」で過酷な戦場を攻略する。これは再現性をうまく活かした例である。
一方で『まどマギ』のほむらの心は、別の世界で死んだまどかたちを重ねつつ、目の前のまどかを見なければならないことに悲鳴を上げている。まどか自身は他の世界で自分が辿った運命など思いもよらない――ほむらとまどかのこの視点の落差(別様可能性が見えているかどうか)が広がり埋まること、それが『まどマギ』という作品の感動の勘所だ。

では『クライムガールズ』はどうか?本作の面白さは、ループ設定の二つのポイントを、エロ漫画でしかできないような仕方で活かしていることにある。『クライムガールズ』においては、ループものとエロ漫画の組み合わせは必然的なものだ。


・再現性――女性を攻略する覚えゲー


エロ漫画に登場する男は、童貞だろうがショタだろうが、ほぼ必ず性的テクニシャンである(力任せのプレイが良い、というようなケースも含めて)。ほとんどの作品でヒロインたちは、男性キャラとのセックスから過剰なほど性的快感を得、深い絶頂を味わう。それはもちろん、感じる女性を見たい、あるいは女性を感じさせる優越感を味わいたい、という読者の欲望ゆえのご都合主義に過ぎない。

『クライムガールズ』の主人公もまた平凡な少年に過ぎないはずなのに、セックスに積極的でない女性であっても感じさせ、膣内射精まで持ち込んでしまう。しかし本作では、主人公の性的練達ぶりにはちゃんと説明がついている。それもループものでしかできない仕方で。
――何度も同じ相手とのセックスを繰り返すなかで、それぞれの女性の性的嗜好や、敏感な場所を学習し、次のループでそれを再現することで、自らのセックスを目の前の相手に最適化しているというわけだ。もはや読者がその虚構性を特に意識していない「エロ漫画のお約束」をわざわざ巧みに合理化する律義さは、コミカルであると同時に、確かにSF的な理屈付けの快楽ももたらしてくれる。


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↑性的嗜好の把握はもちろん、「アヤはここで射精してもあとで膣内射精させてくれる」など、プレイの展開も学習の対象になっている


・別様可能性――エロ漫画の様式性との組み合わせ



現実の背後に今まで/これからのループにおける別様可能性を見透かす相対性の視点は、論理的に言って、「いまの現実もまた、次のループでは消えてしまうかりそめのことに過ぎないかもしれない」という帰結を引き受けねばならない。それは解放感として捉えることもできる(『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でスター俳優トム・クルーズが何度も何度もくだらない理由で死ぬ爆笑のシークエンスは、ループ内での死が本当の死ではないからこそ可能になっている)。一方『クライムガールズ』はこの帰結を儚さとして解釈する。

ネタバレを防ぐために詳細を省くが、本作の終盤、ハルはループの謎を解き真実を知る。ループを終わらせるためには、主人公の大切なある人(以下Aと書く)をひどく不幸にしなければならない。Aはループを解消する前に、ハルと恋人として最後の一日を過ごすことを望む。もちろん24時間が過ぎ、元の時間に戻れば、Aとハルは恋人ではなかったことになり、さらにAにはつらい未来が待っている。それでも彼女はたった24時間の恋人ごっこを望み、ハルもそれを了承する。

このかりそめの24時間こそが本作のクライマックスである。最後の一日が始まってすぐ、ハルとAの前に、今までのループに登場した女性たちが再登場する2ページがある。前のループではハルとセックスしていた彼女たちは、このループでは単に通りすがりの他人だ。ハルとAの関係も同じように、一日過ぎれば書き変わってしまうのだろう。別様可能性を読者に印象付ける名シーンだ。



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↑「出会うはずだった女性たち」がハルの前を過ぎっていく



しかし今の文脈で重要なのは、ハルとAが過ごすかりそめの一日が、エロ漫画の――特に、ある特定のジャンルのエロ漫画の――非常に典型的な展開を忠実になぞるものとして描かれていることだ。いわば二人は、本作の外で、ほかのエロ漫画作品によって何度も何度も繰り返されてきたループする時間を再演しているのである。

その展開は、エロ漫画をある程度嗜んでいる読者にとっては、何度も何度も見てきた陳腐な様式でしかない(主人公のハルが、何度も何度も繰り返される9月14日にだんだんうんざりしていくように)。使い古されているだけでなく、非現実的な様式でもある。しかしその様式性、陳腐さ、虚構性こそが、かえってこのかりそめの一日の儚さを引き立て、そんな一見虚しい一日に思いを賭けたヒロインのいじらしさを強調する。つまりここでは、エロ漫画におけるいかにも非現実的で陳腐なストーリーの形式が、別様可能性に基づく儚さをより効果的に演出するために用いられているのだ。



・まとめとお尻



ここまで、『クライムガールズ』が、いかにエロ漫画でのみ可能な仕方でループ設定を消化しているかを説明してきた。だが『クライムガールズ』は、ストーリーや設定を気にせず単なるエロ漫画として読んでも十分実用性のある作品でもある。

アシオミマサトは女性の体の凸凹を線とトーンによって強調して表現することを得意とする作家である。
むろんこうした方法論は彼独特のものではなく、エロ漫画作家の一つの傾向・スタイルとして広く存在する。特に胴体の凹凸をしっかり描く作家は別に珍しくない(例えばすずはねすず、ぶるまにあん、ゼロの者、口リ作家のさらだなど。ただし、アシオミマサトがこの方法論を肉感の表現として用いているのに対して、さらだは体のスレンダーさ・貧相さの表現として利用している)。
しかしアシオミマサトのこだわりは、この方法論を特定の部位に特に情熱を持って適用している点に現れる。お尻である。本作でアシオミは女性の尻を描くとき、肉が余ってたるみ、尻肉の中、あるいは太ももとの境に段差を作る様をやたらと描く。このこだわり方は尋常ではない。しっかり肉ののったお尻を愛でたいという向きの読者(私を含む)にはヒットするだろう。


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↑お尻のたるみに注目!こだわりを感じる。



というわけで、本作『クライムガールズ』はエロさとストーリーの両輪が揃った、エロ漫画ファンにはおすすめの一冊である。

エロマンガ夜話第36回 ディビ『その指先でころがして』

毎回1つの成人向けマンガを選んで語り尽くすツイキャスエロマンガ夜話。
 3/5の第36回放送では、ディビ先生の『その指先でころがして』を、レギュラーメンバー

新野安@atonkb
まいるど@mairanaid


で語りました。



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 ログはこちら。

 その1
 その2
 その3


 キーワード:「この人変だよ」/Mマンガとしての特徴/背景の書き込み/価値観としてのアマチュアリズム/エロドラマCD/官能小説/足の指による感情表現/RAITA/「見立て」/オトコノコHEAVEN/ぼかしによる遠近法/指フェチ


次回は3/19 23:00より、F4U先生の『修学旅行99日目』を扱います。

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ノスタルジーの普遍化――ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ! ぜんぶ射精し!!』

前回の記事では、ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ!』が感動的である理由を、『キャントば』のドラマ性に焦点を当て、『ロッキー』という補助線を引いて説明した。
だが『キャントば』の魅力をそれだけで解き明かせるとは思わない。
今回は視点を変えて、『キャントば』の「メタエロ漫画」としての特徴に注目してみよう。



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・「エロ漫画論」としての『キャントば』



『キャントば』は、「エロ漫画について語る漫画」=「メタエロ漫画」だ。それは単に、主要登場人物のほとんどがエロ漫画家であるということではない。
『キャントば』においては、「エロ漫画とは何か?」あるいは「エロとは何か?」という問いが、登場人物によって問われ答えられていく。その結果として、エロ漫画やエロへの賛歌が語られる。
『キャントば』は要するに「エロ漫画論」として読めるエロ漫画なのである。


だが、「エロ漫画論」として読めるということは、「エロ漫画論」であることとイコールではない。
「エロ漫画論」にとって重要なのは、結論とそれを支える議論・データといったものだろう。
だが、前回も一度述べたように、『キャントば』はエロ漫画であり、作品である。したがってその魅力を見定めようというとき、「メタエロ漫画」としての側面に注目するとしても、重要なのは語られるメッセージの内容そのものではない。メッセージをどう漫画作品としてコーディングしたかという、メッセージの提示の仕方であろう。
そしてその点において、『キャントば』は、非常に巧妙な戦略※と、小さくないミスの双方を顕わにしているように私には思われる。
以下、順に説明していこう。



・時代性と普遍性の両立



宝田自身が述べているように『キャントば』は実は時代性を強烈に刻印された作品である。
「個人的には40代くらいのオッサンのノスタルジーを込めたつもりだったのですが同年代の方だけでなく以外(原文ママ)とお若い皆さんにも共感を頂いているようでおどろくと同時にエロとか恋愛とか若い頃に感じる漠然とした疎外感みたいなものは年代を問わず不変のテーマなのかなと思ったりもします」(新装版カバー下コメントより)


私が「時代性」と呼び、そしておそらく宝田が「ノスタルジー」と呼んだのは要するに、主人公・貧太のトラウマの内実である。
貧太の学生時代は(彼自身の言葉を使えば)「オタク迫害」の全盛期であり、彼はオタクであることを理由に壮絶なイジメにあっていた。
自らの趣味趣向を素直に認められなくなってしまった彼を救ったのは、道端で拾ったエロマンガの、背景に書き込まれた落書きである。そこには当時放送されていたアニメ『アイドル剣士 夢見るムミル』についての、作者の性的な妄想が堂々と綴られていたのだ。
それを見て彼は、自らの性欲を恥じずに堂々と謳いあげるために、エロマンガ家への道を志す。つまり彼にとって(あるいはこの作品にとって)エロマンガは、自分の性を恥じること無く自身の一部として受け入れる、あるいはそんな自分自身を世界に向け堂々と主張するためのもの、つまりアイデンティティの根拠なのだ(前回の記事も参照のこと)。もう一度貧太のセリフを引用しておこう。
「こんな時代にっ…きっと/たくさんの人が見ているハズのマンガの中にっアニメの中の少女が「好きだ」って…(中略)僕も叫んでみたいっ/この作者みたいに…/僕だって美少女が好きだぞって…/アニメやマンガの女の子が好きで…僕はオタクだぞ…って」


貧太自身が述べているように、『キャントば』が連載された2006-2007年当時、そしてもちろん現在も、オタクであることが即イジメや差別の対象となるほどオタク迫害は苛烈ではない。
したがって貧太が学生時代に経験した苦しみは、もっと前の時代――特に貧太の30歳という年齢を考えるならば、1989年の宮崎勤による連続少女誘拐殺人事件、及びそれにともなうオタクバッシングの記憶が刻印されているものと考えるべきであろう。
また彼のトラウマを癒した「背景の落書き」についても、やはり現代のエロマンガにはめったに見られない。
こうした点で『キャントば』は、ある特定の時代の実感を記録した作品であると言える。



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↑おそらく宮崎勤事件が投影されているのではないか



もしも『キャントば』のエロ漫画論が、あくまで貧太のトラウマと癒しという形でのみ語られるのであれば、それは時代性に基づく切実さこそあれど、あくまで特定の時代に生きたオタクの極めて世代依存な心情吐露として(宝田自身が予想したように)理解されてしまったかもしれない。
だが『キャントば』は初めて単行本化された当時から多くの読者に支持され、また2016年に再販されさらに共感の輪を広げてさえいる。
なぜそのようなことが可能だったのか?
本作のエロ漫画論が、貧太のみならずキャノン先生にも仮託されているからである。


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↑二人のトラウマが重ねられる


キャノン先生は、幼いころに両親のセックスを目撃したことをきっかけに、性に強烈な興味を持つに至った。そのため、普通の少女とは異なる言動を表すようになる(たとえば小学校で「大きくなったらSEXをしたいです!」と発表するなど)。
結果として彼女は親や先生に怒られたり、同級生からイジメを受ける。
終盤で貧太に向け放たれる「Hだと/怒られたり/笑われたり…/イジメられたりするのは…っ/何故ですか?!」という彼女の慟哭には、彼女のつらい過去が込められている。



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↑文字通り「目の色を変えた」キャノン先生。キャラクターの表情をダイナミックに、ときにほとんど原型をとどめないほど変化させるのは宝田の十八番だ



彼女の苦しみを癒し、「作品」としてのエロマンガに昇華させたのは他ならぬ貧太だった。
本作におけるキャノン先生の過去描写はほとんどセリフがなく、キャノン先生が貧太の漫画に出会う場面でも、食い入るように貧太の漫画を読み、頬を赤らめるキャノン先生の顔だけが描写されている。
ここで暗示されているのは、様々なエロ漫画、特に貧太の作品が、キャノン先生のエロへの渇望を肯定し、漫画という形で作品化することを励ました――そして大エロマンガ作家「巨砲キャノン」が誕生した、ということ(そしてもちろん、そのことこそがキャノン先生の貧太への恋心のきっかけであったということ)である。



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↑おそらく貧太同様、拾った漫画雑誌を読んだのだろう



本作では明らかに、キャノン先生が貧太のトラウマと癒しを再演した存在として描かれている。
それは、「イジメ」「漫画による癒し」といった要素だけを抜き出してみても明らかだし、また、先ほど引用したキャノン先生の慟哭に答えるのが貧太であるということ――つまり二人は問いと答えを共有している――からも見て取れる。


だがもっと重要なのは、重ねられている二人のトラウマの間には微妙なズレがあるということだ。
2人がトラウマを植え付けられた時代が違うのは当然として、トラウマの理由についても差異がある。
貧太が「オタクであること」を理由に、ある時代に特有の社会的風潮から抑圧を受けたのに対して、キャノン先生は「幼いにもかかわらず性に興味がある」ということを理由に、「子供が性に興味を持つべきでない」という比較的広い時代で通用する道徳意識に基づき怒られ、笑われている。
要するに、二人が直面している具体的な問題は別物なのだ。


にもかかわらず両者を、同じ悩みと癒しを再演した存在として重ねるとすれば、それは問題の抽象化に他ならない。
つまり、「オタク差別」や、「子供にとってのタブーとしてのセックス」といった問題が、「忌避され、蔑まれる物としての性・エロ」という抽象的な問題のもとに包摂され、ひとくくりにされているのだ。
そう、本作のエロ漫画論が「ノスタルジー」ないし時代に局限された実感から出発しながら、同時に普遍的な共感を得ることに成功しているのは、貧太とキャノン先生の相互にズレたトラウマと癒しを重ね合わせることで、問題を抽象化することに成功しているからなのだ。


例えば多くの男性が、エロ本を同居人(親など)からどう隠すか、頭をひねらせたことが一度くらいはあるはずだ。あるいは腐女子の人なら、自分がBL好きであることを周りから隠そうとした経験があるかもしれない。
「忌避されるものとしての性・エロ」として抽象的にとらえられた問題関心は、具体的な発現の仕方は様々あれど、誰でも思い当たるような普遍的なものである。
そして読者の特殊具体的なエロについての悩みやモヤモヤが、抽象化された問題関心を媒介としてキャノン先生や貧太のトラウマと共感でつながるとき、読者がキャノン先生や貧太の癒しをさらに再演することとなる。というのも読者もまた、『キャノン先生トばしすぎ!』という漫画作品によって自らのエロさを肯定されることになるのだから。
読者を作品に巻き込むこの巧妙な構造こそが、エロ漫画論を語るメタエロ漫画としての『キャントば』が、多くの読者を感動させる理由である。



・落書きについて



ここまで分析してきたように、『キャントば』は、読者の共感と感動を誘うよう巧妙に作られた作品である。
しかし、私はメタエロ漫画としての『キャントば』には、ひとつのミスがあるとも考えている。
というのも、『キャントば』は本当の意味でエロ漫画への愛を謳いあげることに失敗している――むしろエロ漫画以外の何かへの愛をこそ語っているように読めてしまうのだ。


既に述べてきた通り、『キャントば』では、貧太が自らのトラウマを、エロ漫画を読むことをきっかけにして癒す過程が描かれる。そこには、『キャントば』を読んで感動する読者が重ねられているということもまた、既に述べた。ゆえに、本作は読者へ「エロ漫画の素晴らしさ」を語るものとなっているように見える。しかし、本当だろうか?


もう少し細かく見てみよう。貧太の癒しのきっかけになったのは、実はエロ漫画ではない。エロ漫画の中の落書きの文章である。また『キャントば』の中で感動的な部分のほとんどは、エロシーンではない。貧太・キャノン先生の過去回想シーンや、エロ漫画に真剣に向かう貧太を描くシーンである。つまり、エロ漫画としての『キャントば』の中では、いわば「背景の落書き」というようなシーンである。



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↑背景の落書きに感動する貧太――を描くこのシーン自体がエロマンガとしての『キャントば』にとっては「背景の落書き」であるという、自己言及的な構造がある



背景の落書きの文章を読んで涙を流す貧太、『キャントば』の非エロシーンを読んで感動する読者――が重なるとき、「エロ漫画」にとってもっとも根本的であるはずの、エロいシーンとそれを読んで興奮する読者という対は、すっぽり抜け落ちているのではないだろうか?つまり実は、「エロ漫画」そのものの素晴らしさは語られてはおらず、もっと違うものが称揚されていることにならないか?


このことに気づくとき、貧太が読んだ背景の落書きが、アニメ作品について語った文章であるというのは示唆的な意味を持ってしまう。「アニメについて語る」落書き、「エロマンガについて語る」『キャントば』の非エロシーン、そうしたものが、アニメやエロ漫画そのものよりも重要なものであるかのようにも読めてしまうのだ。つまり、『キャントば』は、エロ漫画そのものというよりも、作品についてのメタ視点からの「語り」への愛を謳っているようにも読めてしまうのだ。
もしも以上の読解を採用するなら、本作は「エロ漫画愛」を語ることに失敗している。むしろ、エロ漫画そのものに誠実に向き合えていないという批判を受けても仕方ないだろう。エロ漫画論をエロ漫画のなかにコーディングしきれず、メタな役割を担う非エロシーンとエロシーンが分離してしまった結果、ネガティブな読解の可能性を生んでしまっている、と言ってもいい。


・最後に


以上、『キャントば』のメタエロ漫画としての特徴を分析してきた。
最後に述べたように、私は『キャントば』は小さくない問題を抱えた作品だと考えている。しかし、この記事の前半で分析したような、時代的な強度と普遍的な共感を両立させる見事な技巧や、前回述べた「ロッキー」的な負け犬物語を描く脚本は、そんな欠点を補って余りある。何度も強調してきたように本作は、エロ漫画ファンが共感できるようなメッセージがあるから名作なのではない。端的によくできているのだ。これほどまでにウェルメイドなエロ漫画を私は他に知らない。もしもあなたがまだ本作を読んだことがないのならば、ぜひとも新装版を手に取って読んでみてほしい


※以下で「戦略」や「技巧」というとき、作者自身の意識や意図の存在は含意していない。あくまで、結果的にある特定の効果を発揮してしまった(結果的に「戦略」や「技巧」として機能した)作品の特徴のことを「戦略」や「技巧」と読んでいる。後に引用する宝田のコメントを読んでもらえば分かる通り、本記事で私が指摘した「戦略」について、宝田自身は意識的でなかったように見える。

エロマンガ夜話 第35回 鬼ノ仁『僕の麻利恵さん』

毎回1つの成人向けマンガを選んで語り尽くすツイキャスエロマンガ夜話。
 2/12の第35回放送では、めぐりさん@meg_bardからのリクエストで、鬼ノ仁先生の『僕の麻利恵さん』を、レギュラーメンバー

新野安@atonkb
まいるど@mairanaid


で語りました。



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 その1
 その2
 その3


 キーワード:余韻/絵柄のトレンド変化/アップグレード/テーマの変化/リアリティラインの変化/メーテル/ブラックジャック/宮沢賢治/田舎/外へ/反成熟/長髪/打ちっぱなしのコンクリート/山本直樹/ちょっと寝取られ風/自分との闘い/長編エロマンガのジレンマ


次回は2/26 23:00より、ディビ先生の『その指先でころがして』を扱います。

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