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オール・ユー・ニード・イズ・セックス――アシオミマサト『クライムガールズ』

2017年にティーアイネットから発行されたアシオミマサトの単行本『クライムガールズ』は、9月14日をずっとループし続ける男の話である。
むろん、猫も杓子もトムクルーズも時の輪の中を回り続けているこのテン年代において、いまさらループ物などと言われても驚きはない。むしろ今更感すら漂う。

だが、そのループを始めるトリガーが膣内射精だったらどうだろうか?
つまり、『クライムガールズ』は、エロ漫画でありながらループもの漫画なのだ。しかも、ループものであることとエロ漫画であることは、本作の中で単に並列されているのではない。『クライムガールズ』には、「エロ漫画×ループ漫画」という組み合わせによってのみ実現可能な美的達成(面白さ)がある。となれば、ゲーム的リアリズムを日々サヴァイヴする我々にも驚くべき理由はあるだろう。



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・あらすじ


『クライムガールズ』の主人公・ハルは、9月14日を何度も何度も繰り返している。
彼は繰り返される14日の中で必ず、ある女性の後ろめたい行為――犯罪や不倫――の現場に立ち会う。ハルはその現場を押さえ、女性を脅し、セックスに持ち込まなければならない。
そして無事、膣内射精に成功すると、彼は今のループから抜け出し、新たなループに突入する。次の9月14日が始まり、ハルはまた別の犯行現場に飛ばされ、新たな女性と出会う。いわば次のステージに進むわけだ。


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↑ループはセックスによって突破できる



なぜ自分はこんなループゲームに巻き込まれることになったのか。その謎を解き正常な時間に戻るため、ハルは次々に膣内射精を続けていく――以上が本作のあらすじである。

あまりにも馬鹿馬鹿しい設定なのでコメディのように聞こえるかもしれないが、本作はあくまでシリアスなSF作品として描かれている。例えば、膣内射精がループを抜けるトリガーであることにも後できちんと説明がつき、ある人物にとっての非常に切実な事情があったことがわかる。実用目的で手に取った読者も、だんだん本作の豊かなドラマ性に引き込まれていくことだろう。



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↑本作ではタイムリープの象徴として蝶が使われているが、これは映画『バタフライ・エフェクト』を暗示している。とある重要な展開がこの映画から引用されているのだ



・ループ設定の二つのポイント



では、冒頭で述べた「美的達成」について詳しく説明しよう。
あくまで私見に基づく仮説だが、ループ設定が漫画やアニメや映画の物語に対して持つポイントは、以下の二つに要約できる。


・再現性
・別様可能性



再現性とは、「初期設定が同じであるならば、同じことが起こり続ける」ということである。一方で別様可能性とは、「今起こっている出来事のあり方の背景には、別の様々な可能性が存在する(した)。この現実はその中の一つに過ぎない」という視点・感覚である。ループものにおいては、決められた時間の中で同じ出来事が起こり続ける。しかし主人公が初期設定に対して手を加えてやることで、出来事は上書きされ、毎回違った進展を見せていく。この「同じ」と「違い」のペアがループものの本質である。

ループものの傑作の多くは、この二点をうまくドラマの面白さにつなげている。
例えば『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(映画版)のトムクルーズは、ループし続ける世界のあり方や敵の動き方がいつも全く同じであることに気づき、それを暗記することで、「覚えゲー」で過酷な戦場を攻略する。これは再現性をうまく活かした例である。
一方で『まどマギ』のほむらの心は、別の世界で死んだまどかたちを重ねつつ、目の前のまどかを見なければならないことに悲鳴を上げている。まどか自身は他の世界で自分が辿った運命など思いもよらない――ほむらとまどかのこの視点の落差(別様可能性が見えているかどうか)が広がり埋まること、それが『まどマギ』という作品の感動の勘所だ。

では『クライムガールズ』はどうか?本作の面白さは、ループ設定の二つのポイントを、エロ漫画でしかできないような仕方で活かしていることにある。『クライムガールズ』においては、ループものとエロ漫画の組み合わせは必然的なものだ。


・再現性――女性を攻略する覚えゲー


エロ漫画に登場する男は、童貞だろうがショタだろうが、ほぼ必ず性的テクニシャンである(力任せのプレイが良い、というようなケースも含めて)。ほとんどの作品でヒロインたちは、男性キャラとのセックスから過剰なほど性的快感を得、深い絶頂を味わう。それはもちろん、感じる女性を見たい、あるいは女性を感じさせる優越感を味わいたい、という読者の欲望ゆえのご都合主義に過ぎない。

『クライムガールズ』の主人公もまた平凡な少年に過ぎないはずなのに、セックスに積極的でない女性であっても感じさせ、膣内射精まで持ち込んでしまう。しかし本作では、主人公の性的練達ぶりにはちゃんと説明がついている。それもループものでしかできない仕方で。
――何度も同じ相手とのセックスを繰り返すなかで、それぞれの女性の性的嗜好や、敏感な場所を学習し、次のループでそれを再現することで、自らのセックスを目の前の相手に最適化しているというわけだ。もはや読者がその虚構性を特に意識していない「エロ漫画のお約束」をわざわざ巧みに合理化する律義さは、コミカルであると同時に、確かにSF的な理屈付けの快楽ももたらしてくれる。


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↑性的嗜好の把握はもちろん、「アヤはここで射精してもあとで膣内射精させてくれる」など、プレイの展開も学習の対象になっている


・別様可能性――エロ漫画の様式性との組み合わせ



現実の背後に今まで/これからのループにおける別様可能性を見透かす相対性の視点は、論理的に言って、「いまの現実もまた、次のループでは消えてしまうかりそめのことに過ぎないかもしれない」という帰結を引き受けねばならない。それは解放感として捉えることもできる(『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でスター俳優トム・クルーズが何度も何度もくだらない理由で死ぬ爆笑のシークエンスは、ループ内での死が本当の死ではないからこそ可能になっている)。一方『クライムガールズ』はこの帰結を儚さとして解釈する。

ネタバレを防ぐために詳細を省くが、本作の終盤、ハルはループの謎を解き真実を知る。ループを終わらせるためには、主人公の大切なある人(以下Aと書く)をひどく不幸にしなければならない。Aはループを解消する前に、ハルと恋人として最後の一日を過ごすことを望む。もちろん24時間が過ぎ、元の時間に戻れば、Aとハルは恋人ではなかったことになり、さらにAにはつらい未来が待っている。それでも彼女はたった24時間の恋人ごっこを望み、ハルもそれを了承する。

このかりそめの24時間こそが本作のクライマックスである。最後の一日が始まってすぐ、ハルとAの前に、今までのループに登場した女性たちが再登場する2ページがある。前のループではハルとセックスしていた彼女たちは、このループでは単に通りすがりの他人だ。ハルとAの関係も同じように、一日過ぎれば書き変わってしまうのだろう。別様可能性を読者に印象付ける名シーンだ。



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↑「出会うはずだった女性たち」がハルの前を過ぎっていく



しかし今の文脈で重要なのは、ハルとAが過ごすかりそめの一日が、エロ漫画の――特に、ある特定のジャンルのエロ漫画の――非常に典型的な展開を忠実になぞるものとして描かれていることだ。いわば二人は、本作の外で、ほかのエロ漫画作品によって何度も何度も繰り返されてきたループする時間を再演しているのである。

その展開は、エロ漫画をある程度嗜んでいる読者にとっては、何度も何度も見てきた陳腐な様式でしかない(主人公のハルが、何度も何度も繰り返される9月14日にだんだんうんざりしていくように)。使い古されているだけでなく、非現実的な様式でもある。しかしその様式性、陳腐さ、虚構性こそが、かえってこのかりそめの一日の儚さを引き立て、そんな一見虚しい一日に思いを賭けたヒロインのいじらしさを強調する。つまりここでは、エロ漫画におけるいかにも非現実的で陳腐なストーリーの形式が、別様可能性に基づく儚さをより効果的に演出するために用いられているのだ。



・まとめとお尻



ここまで、『クライムガールズ』が、いかにエロ漫画でのみ可能な仕方でループ設定を消化しているかを説明してきた。だが『クライムガールズ』は、ストーリーや設定を気にせず単なるエロ漫画として読んでも十分実用性のある作品でもある。

アシオミマサトは女性の体の凸凹を線とトーンによって強調して表現することを得意とする作家である。
むろんこうした方法論は彼独特のものではなく、エロ漫画作家の一つの傾向・スタイルとして広く存在する。特に胴体の凹凸をしっかり描く作家は別に珍しくない(例えばすずはねすず、ぶるまにあん、ゼロの者、口リ作家のさらだなど。ただし、アシオミマサトがこの方法論を肉感の表現として用いているのに対して、さらだは体のスレンダーさ・貧相さの表現として利用している)。
しかしアシオミマサトのこだわりは、この方法論を特定の部位に特に情熱を持って適用している点に現れる。お尻である。本作でアシオミは女性の尻を描くとき、肉が余ってたるみ、尻肉の中、あるいは太ももとの境に段差を作る様をやたらと描く。このこだわり方は尋常ではない。しっかり肉ののったお尻を愛でたいという向きの読者(私を含む)にはヒットするだろう。


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↑お尻のたるみに注目!こだわりを感じる。



というわけで、本作『クライムガールズ』はエロさとストーリーの両輪が揃った、エロ漫画ファンにはおすすめの一冊である。

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ノスタルジーの普遍化――ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ! ぜんぶ射精し!!』

前回の記事では、ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ!』が感動的である理由を、『キャントば』のドラマ性に焦点を当て、『ロッキー』という補助線を引いて説明した。
だが『キャントば』の魅力をそれだけで解き明かせるとは思わない。
今回は視点を変えて、『キャントば』の「メタエロ漫画」としての特徴に注目してみよう。



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・「エロ漫画論」としての『キャントば』



『キャントば』は、「エロ漫画について語る漫画」=「メタエロ漫画」だ。それは単に、主要登場人物のほとんどがエロ漫画家であるということではない。
『キャントば』においては、「エロ漫画とは何か?」あるいは「エロとは何か?」という問いが、登場人物によって問われ答えられていく。その結果として、エロ漫画やエロへの賛歌が語られる。
『キャントば』は要するに「エロ漫画論」として読めるエロ漫画なのである。


だが、「エロ漫画論」として読めるということは、「エロ漫画論」であることとイコールではない。
「エロ漫画論」にとって重要なのは、結論とそれを支える議論・データといったものだろう。
だが、前回も一度述べたように、『キャントば』はエロ漫画であり、作品である。したがってその魅力を見定めようというとき、「メタエロ漫画」としての側面に注目するとしても、重要なのは語られるメッセージの内容そのものではない。メッセージをどう漫画作品としてコーディングしたかという、メッセージの提示の仕方であろう。
そしてその点において、『キャントば』は、非常に巧妙な戦略※と、小さくないミスの双方を顕わにしているように私には思われる。
以下、順に説明していこう。



・時代性と普遍性の両立



宝田自身が述べているように『キャントば』は実は時代性を強烈に刻印された作品である。
「個人的には40代くらいのオッサンのノスタルジーを込めたつもりだったのですが同年代の方だけでなく以外(原文ママ)とお若い皆さんにも共感を頂いているようでおどろくと同時にエロとか恋愛とか若い頃に感じる漠然とした疎外感みたいなものは年代を問わず不変のテーマなのかなと思ったりもします」(新装版カバー下コメントより)


私が「時代性」と呼び、そしておそらく宝田が「ノスタルジー」と呼んだのは要するに、主人公・貧太のトラウマの内実である。
貧太の学生時代は(彼自身の言葉を使えば)「オタク迫害」の全盛期であり、彼はオタクであることを理由に壮絶なイジメにあっていた。
自らの趣味趣向を素直に認められなくなってしまった彼を救ったのは、道端で拾ったエロマンガの、背景に書き込まれた落書きである。そこには当時放送されていたアニメ『アイドル剣士 夢見るムミル』についての、作者の性的な妄想が堂々と綴られていたのだ。
それを見て彼は、自らの性欲を恥じずに堂々と謳いあげるために、エロマンガ家への道を志す。つまり彼にとって(あるいはこの作品にとって)エロマンガは、自分の性を恥じること無く自身の一部として受け入れる、あるいはそんな自分自身を世界に向け堂々と主張するためのもの、つまりアイデンティティの根拠なのだ(前回の記事も参照のこと)。もう一度貧太のセリフを引用しておこう。
「こんな時代にっ…きっと/たくさんの人が見ているハズのマンガの中にっアニメの中の少女が「好きだ」って…(中略)僕も叫んでみたいっ/この作者みたいに…/僕だって美少女が好きだぞって…/アニメやマンガの女の子が好きで…僕はオタクだぞ…って」


貧太自身が述べているように、『キャントば』が連載された2006-2007年当時、そしてもちろん現在も、オタクであることが即イジメや差別の対象となるほどオタク迫害は苛烈ではない。
したがって貧太が学生時代に経験した苦しみは、もっと前の時代――特に貧太の30歳という年齢を考えるならば、1989年の宮崎勤による連続少女誘拐殺人事件、及びそれにともなうオタクバッシングの記憶が刻印されているものと考えるべきであろう。
また彼のトラウマを癒した「背景の落書き」についても、やはり現代のエロマンガにはめったに見られない。
こうした点で『キャントば』は、ある特定の時代の実感を記録した作品であると言える。



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↑おそらく宮崎勤事件が投影されているのではないか



もしも『キャントば』のエロ漫画論が、あくまで貧太のトラウマと癒しという形でのみ語られるのであれば、それは時代性に基づく切実さこそあれど、あくまで特定の時代に生きたオタクの極めて世代依存な心情吐露として(宝田自身が予想したように)理解されてしまったかもしれない。
だが『キャントば』は初めて単行本化された当時から多くの読者に支持され、また2016年に再販されさらに共感の輪を広げてさえいる。
なぜそのようなことが可能だったのか?
本作のエロ漫画論が、貧太のみならずキャノン先生にも仮託されているからである。


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↑二人のトラウマが重ねられる


キャノン先生は、幼いころに両親のセックスを目撃したことをきっかけに、性に強烈な興味を持つに至った。そのため、普通の少女とは異なる言動を表すようになる(たとえば小学校で「大きくなったらSEXをしたいです!」と発表するなど)。
結果として彼女は親や先生に怒られたり、同級生からイジメを受ける。
終盤で貧太に向け放たれる「Hだと/怒られたり/笑われたり…/イジメられたりするのは…っ/何故ですか?!」という彼女の慟哭には、彼女のつらい過去が込められている。



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↑文字通り「目の色を変えた」キャノン先生。キャラクターの表情をダイナミックに、ときにほとんど原型をとどめないほど変化させるのは宝田の十八番だ



彼女の苦しみを癒し、「作品」としてのエロマンガに昇華させたのは他ならぬ貧太だった。
本作におけるキャノン先生の過去描写はほとんどセリフがなく、キャノン先生が貧太の漫画に出会う場面でも、食い入るように貧太の漫画を読み、頬を赤らめるキャノン先生の顔だけが描写されている。
ここで暗示されているのは、様々なエロ漫画、特に貧太の作品が、キャノン先生のエロへの渇望を肯定し、漫画という形で作品化することを励ました――そして大エロマンガ作家「巨砲キャノン」が誕生した、ということ(そしてもちろん、そのことこそがキャノン先生の貧太への恋心のきっかけであったということ)である。



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↑おそらく貧太同様、拾った漫画雑誌を読んだのだろう



本作では明らかに、キャノン先生が貧太のトラウマと癒しを再演した存在として描かれている。
それは、「イジメ」「漫画による癒し」といった要素だけを抜き出してみても明らかだし、また、先ほど引用したキャノン先生の慟哭に答えるのが貧太であるということ――つまり二人は問いと答えを共有している――からも見て取れる。


だがもっと重要なのは、重ねられている二人のトラウマの間には微妙なズレがあるということだ。
2人がトラウマを植え付けられた時代が違うのは当然として、トラウマの理由についても差異がある。
貧太が「オタクであること」を理由に、ある時代に特有の社会的風潮から抑圧を受けたのに対して、キャノン先生は「幼いにもかかわらず性に興味がある」ということを理由に、「子供が性に興味を持つべきでない」という比較的広い時代で通用する道徳意識に基づき怒られ、笑われている。
要するに、二人が直面している具体的な問題は別物なのだ。


にもかかわらず両者を、同じ悩みと癒しを再演した存在として重ねるとすれば、それは問題の抽象化に他ならない。
つまり、「オタク差別」や、「子供にとってのタブーとしてのセックス」といった問題が、「忌避され、蔑まれる物としての性・エロ」という抽象的な問題のもとに包摂され、ひとくくりにされているのだ。
そう、本作のエロ漫画論が「ノスタルジー」ないし時代に局限された実感から出発しながら、同時に普遍的な共感を得ることに成功しているのは、貧太とキャノン先生の相互にズレたトラウマと癒しを重ね合わせることで、問題を抽象化することに成功しているからなのだ。


例えば多くの男性が、エロ本を同居人(親など)からどう隠すか、頭をひねらせたことが一度くらいはあるはずだ。あるいは腐女子の人なら、自分がBL好きであることを周りから隠そうとした経験があるかもしれない。
「忌避されるものとしての性・エロ」として抽象的にとらえられた問題関心は、具体的な発現の仕方は様々あれど、誰でも思い当たるような普遍的なものである。
そして読者の特殊具体的なエロについての悩みやモヤモヤが、抽象化された問題関心を媒介としてキャノン先生や貧太のトラウマと共感でつながるとき、読者がキャノン先生や貧太の癒しをさらに再演することとなる。というのも読者もまた、『キャノン先生トばしすぎ!』という漫画作品によって自らのエロさを肯定されることになるのだから。
読者を作品に巻き込むこの巧妙な構造こそが、エロ漫画論を語るメタエロ漫画としての『キャントば』が、多くの読者を感動させる理由である。



・落書きについて



ここまで分析してきたように、『キャントば』は、読者の共感と感動を誘うよう巧妙に作られた作品である。
しかし、私はメタエロ漫画としての『キャントば』には、ひとつのミスがあるとも考えている。
というのも、『キャントば』は本当の意味でエロ漫画への愛を謳いあげることに失敗している――むしろエロ漫画以外の何かへの愛をこそ語っているように読めてしまうのだ。


既に述べてきた通り、『キャントば』では、貧太が自らのトラウマを、エロ漫画を読むことをきっかけにして癒す過程が描かれる。そこには、『キャントば』を読んで感動する読者が重ねられているということもまた、既に述べた。ゆえに、本作は読者へ「エロ漫画の素晴らしさ」を語るものとなっているように見える。しかし、本当だろうか?


もう少し細かく見てみよう。貧太の癒しのきっかけになったのは、実はエロ漫画ではない。エロ漫画の中の落書きの文章である。また『キャントば』の中で感動的な部分のほとんどは、エロシーンではない。貧太・キャノン先生の過去回想シーンや、エロ漫画に真剣に向かう貧太を描くシーンである。つまり、エロ漫画としての『キャントば』の中では、いわば「背景の落書き」というようなシーンである。



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↑背景の落書きに感動する貧太――を描くこのシーン自体がエロマンガとしての『キャントば』にとっては「背景の落書き」であるという、自己言及的な構造がある



背景の落書きの文章を読んで涙を流す貧太、『キャントば』の非エロシーンを読んで感動する読者――が重なるとき、「エロ漫画」にとってもっとも根本的であるはずの、エロいシーンとそれを読んで興奮する読者という対は、すっぽり抜け落ちているのではないだろうか?つまり実は、「エロ漫画」そのものの素晴らしさは語られてはおらず、もっと違うものが称揚されていることにならないか?


このことに気づくとき、貧太が読んだ背景の落書きが、アニメ作品について語った文章であるというのは示唆的な意味を持ってしまう。「アニメについて語る」落書き、「エロマンガについて語る」『キャントば』の非エロシーン、そうしたものが、アニメやエロ漫画そのものよりも重要なものであるかのようにも読めてしまうのだ。つまり、『キャントば』は、エロ漫画そのものというよりも、作品についてのメタ視点からの「語り」への愛を謳っているようにも読めてしまうのだ。
もしも以上の読解を採用するなら、本作は「エロ漫画愛」を語ることに失敗している。むしろ、エロ漫画そのものに誠実に向き合えていないという批判を受けても仕方ないだろう。エロ漫画論をエロ漫画のなかにコーディングしきれず、メタな役割を担う非エロシーンとエロシーンが分離してしまった結果、ネガティブな読解の可能性を生んでしまっている、と言ってもいい。


・最後に


以上、『キャントば』のメタエロ漫画としての特徴を分析してきた。
最後に述べたように、私は『キャントば』は小さくない問題を抱えた作品だと考えている。しかし、この記事の前半で分析したような、時代的な強度と普遍的な共感を両立させる見事な技巧や、前回述べた「ロッキー」的な負け犬物語を描く脚本は、そんな欠点を補って余りある。何度も強調してきたように本作は、エロ漫画ファンが共感できるようなメッセージがあるから名作なのではない。端的によくできているのだ。これほどまでにウェルメイドなエロ漫画を私は他に知らない。もしもあなたがまだ本作を読んだことがないのならば、ぜひとも新装版を手に取って読んでみてほしい


※以下で「戦略」や「技巧」というとき、作者自身の意識や意図の存在は含意していない。あくまで、結果的にある特定の効果を発揮してしまった(結果的に「戦略」や「技巧」として機能した)作品の特徴のことを「戦略」や「技巧」と読んでいる。後に引用する宝田のコメントを読んでもらえば分かる通り、本記事で私が指摘した「戦略」について、宝田自身は意識的でなかったように見える。

『キャントば』は『ロッキー』である――ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ! ぜんぶ射精し!!』

2016年のエロ漫画関連ニュースの中で私にとって特に大きな驚きだったのは、
2008年にオークスから一度刊行され、その後絶版となっていた、ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ!』の再販であった。※0

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そもそもエロ漫画が装いを変えて再販されること自体が珍しいことだが、
口リ作品である『キャントば』が、巨乳ヒロインがトレードマークのエンジェル出版から再販されるというのだ。
このような異例の出来事が実現したのもひとえに『キャントば』が、
エロマンガを代表する名作として、エロマンガファンの広くはない枠を超えるほどの支持を集めているからであろう。



・『キャントば』はなぜ感動的なのか?



『キャントば』は、思うように活躍できないまま中年に差し掛かった遅筆のエロマンガ家である貧太(表紙の男性)が、
大ヒットエロマンガ家でありながら未成年の少女であるキャノン先生(表紙の少女)と愛を深めつつ、
作家として再起しようと奮闘する物語だ。


本作はエロマンガ界でも特殊な立ち位置を持つ作品である。というのも、稀見理都がすでに指摘しているように、
「抜く」ことを究極の目標とするはずのエロマンガでありながら、「エロいか否か」とは別の軸――つまり「感動」という軸で、
広く高い評価を受けているのだ。※1
では『キャントば』が「感動の名作」として受け入れられることになったのはなぜだろうか?


一つの可能な説明は、『キャントば』が伝えているメッセージにその原因を求めるものだ。
後に詳しく確認するが、『キャントば』は「エロ漫画とは何か?」「人間にとってエロとは何か?」という問いを投げかけ、
答えとして力強くエロ漫画やエロを肯定するという、「メタエロ漫画」としての性格を持っている。
そのメッセージが、特にエロ漫画読者にとって感動的である、というのは、
『キャントば』への賛辞としてしばしば語られることである。


しかし、この説明はどこまで説得的だろうか?
新装版のカバー下で宝田自身が語っているように※2、『キャントば』の顕著な達成の一つは、
それまでエロマンガを読んだことがないような読者にまでリーチし、評価を勝ち得たという点にある。
このことを考えるとき、『キャントば』のもつ感動を、「エロ漫画賛歌」によって説明することは、
一見するほど有効でないと言わざるを得ないのではないか。


また、そもそも良いメッセージを語っていることが、必ずしも感動的な漫画を生むことにはならない。
漫画はスローガンや論文ではない。重要なのは、メッセージをどのように作品としてパッケージするかという点にある。



・メッセージからドラマへ。『キャントば』=『ロッキー』説



思うに『キャントば』が感動的なのは、そのメッセージの感動と同程度、あるいはそれ以上に、
そのドラマの持つ構造の強靭さに理由がある。
単刀直入に結論を述べれば、『キャントば』が感動的なのは、
『キャントば』が『ロッキー』であり『ロッキー』が感動的であるからだ、と言いたい。


『ロッキー』は、1976年に公開された、S・スタローン脚本・主演のボクシング映画である。
今更説明するのも馬鹿馬鹿しいほど有名な作品だが、負け犬ボクサー・ロッキーが、
人生の逆転をかけて世界チャンピオンとの試合に挑む、というお話の映画だ。


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↑私などはポスターを見ているだけでもう泣けてくる


・『ロッキー』と『キャントば』 人物関係の視点から


『ロッキー』と『キャントば』が、そのドラマ・ストーリーに注目したとき、いかに似ているのか。
まず人物関係という側面から見てみよう。


『キャントば』は、うだつのあがらない中年エロ漫画家・貧太が主人公だ。
彼はキャノン先生という恋人と出会い愛をはぐくむ。
彼の前には若手のホープ・海乃がライバルとして立ちはだかる。
キャノン先生の愛と、編集長の厳しい叱咤を受けながら、
貧太は自らの作品を書き切るべく努力する。


一方『ロッキー』は、うだつのあがらない中年ボクサーロッキーが主人公であり、
彼はエイドリアンという恋人と出会い愛をはぐくむ。
後に生涯のライバルとなるアポロ・クリードに対峙し、
エイドリアンの愛と、老トレーナーミッキーの叱咤とともに、
タイトルマッチを戦い抜く。


このように整理すると、


貧太ロッキー
キャノン先生エイドリアン
海乃アポロ
編集長ミッキー



という形での対応が見えてくるだろう。
つまり、メインキャラクターとその間の人物関係が、ほとんど一対一で対応しているのである。
(ただし、エイドリアンの兄・ポーリーは『キャントば』に対応するキャラクターがいない。
また当然だが対応づけられたキャラがなにからなにまで全く同じ存在だというわけでもない。
あくまでそれぞれの人物の役割と相互関係が、ある程度類似している、ということである)


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↑貧太、キャノン先生、海乃、編集長。ロッキー、エイドリアン、アポロ、ミッキー、にほぼ対応する


『ロッキー』は、その名前に反し、ロッキーだけの物語ではない。
ロッキーを取り巻く人々がそれぞれに抱えているドラマや、彼らとロッキーとの人間関係といったサブプロット群が、
メインプロットに有機的に絡むことで、豊かな感動をもたらしている。
『キャントば』もまた同様である。上述の人間関係に基づいて、
非エロシーンにページを割きづらいエロ漫画というメディアにおいては例外的なほど、複雑なサブプロットが語られる。
そうした枝の一つ一つが幹であるメインプロットに一気に合流し、物語全体を解決に導くという展開の妙が、
『キャントば』終盤の感動を生んでいるのだ。



・『ロッキー』と『キャントば』 主人公の動機という視点から



次に、メインプロットの骨格をなす、主人公の動機に目を向けてみよう。
『ロッキー』も『キャントば』も、どん底に陥った主人公が、
自らが戦うべき・ペンを振るうべき動機に立ち返ることによって復活することが、
クライマックスの解決に向けての「てこ」となる。
その場面で主人公が話すことになるセリフを振り返ってみよう。


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アポロ・クリードとの戦いの前夜、今までに立ったことのない大掛かりな試合会場を下見したロッキーは、
自らがとてもチャンプになれる器ではない、ということを悟ってしまう。
弱気なロッキーを慰めようとするエイドリアンに、彼は次のように話す。
「だめだ。勝てないよ。(中略)だがどうでもいい。負けてもどうってことはねえんだ。脳天を勝ち割られても関係ない。最後までやる(go the distance)だけだ。クリードと最後までやりあった奴はいない。もし俺が15ラウンド戦って、ゴングが鳴ってもまだ立っていられたら、おれは初めて、自分がただのごろつきじゃないって実感できる


一方で、原稿を雑誌に載せることができる最後のチャンスにもかかわらず、期限までの入稿が絶望的になってしまった貧太は、
自らがなぜエロマンガ家を志したかを思い出す。
オタクが迫害されていた時代(本作には宮崎事件の記憶が投影されている)を過ごしていた少年の彼は、
イジメを恐れ、自らの趣味嗜好を隠し生きることに疲れ切っていた。
そんなとき彼は道端でエロマンガを拾い、欄外の落書きの内容に涙を流す。
「こんな時代にっ…きっと/たくさんの人が見ているハズのマンガの中にっアニメの中の少女が「好きだ」って…(中略)僕も叫んでみたいっ/この作者みたいに…/僕だって美少女が好きだぞって…/アニメやマンガの女の子が好きで…僕はオタクだぞ…って


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自らの原点を辿りなおした貧太は、間に合うはずのない原稿に向かい、キャノン先生に宣言する。
間に合わないかもしれません…いえっ間に合うハズがありませんっ/わはははははっ/でもやるんですっ僕は…/やらずにはおくものかっ」


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二人のセリフは一見全く違ったトピックについて語っているようで、本質的な2つの点で共通している。
一つ、両者にとってそれぞれの仕事(ボクシング・エロ漫画)が、
自らのアイデンティティの根拠となっているという表明である。
そしてもう一つはそれゆえに、自らが納得できるまでやるということが重要なのであり、
客観的な成功(タイトル獲得・期限内の入稿)は二の次であるということだ。
本当に重要なのは相手や締め切りに勝つことではない。自分自身を恥じないためのプライドを掴むことだ。
そのために戦うからこそロッキーのボクシングは、そして貧太の努力は胸を打つのだ。


・『キャントば』が『ロッキー』を超えた場所



以上のように、主人公を取り巻く人物関係、および主人公の動機という二つの面から、
『ロッキー』と『キャントば』のストーリーの類似性を見て取ることができる。
『ロッキー』のストーリー構造が優れており、
そこで描かれるドラマ――負け犬のプライド、不器用な青春と愛、師との衝突と和解――が多くの観客の共感を誘ってきたということは、
『ロッキー』が歴史に残る名作とされ、いまだ多くの涙と感動をもたらしていることで証明されている。
『キャントば』が感動的なのは、このような強靭な脚本の構造を、
(実際の影響関係はどうあれ結果的には)エロ漫画についての話として見事に換骨奪胎し、
語りなおしているからなのだ。


ただしもちろん、『キャントば』は単に『ロッキー』を"移植"した作品ではない。
『キャンとば』にあって『ロッキー』にない美点として、キャノン先生のキャラクター設定がある。


『ロッキー』におけるエイドリアンは、基本的にはロッキーを支える存在として設定されており、
彼女自身のこだわりや欲望といったものはあまり前面に出されない。
彼女がロッキーを叱咤できるほどの積極性を得るまでには、『ロッキー3』まで待たねばならない。
対して、キャノン先生は、貧太をけなげに愛し、彼を支える少女としての側面をもちろん備えているが、
同時にエロに関する重大なトラウマを克服しようという自分自身の動機を持ち、
さらに、一流エロ漫画家として貧太を導く存在でもある。
このような複雑な性格と確かな自我のおかげで、キャノン先生はとても魅力的なヒロインとなっている。



(続きます。次回は、『キャントば』のメタエロ漫画としての性格を分析します。個人的には『キャントば』は優れた作品だと思いつつもどうしても好きになりきれない点があるのですが、その理由なども説明するつもりです。)

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※0この記事、及びこの記事の続編は、実質的にはエロマンガ夜話第二回で新野が語った『キャントば』論の要約・敷衍です。ただし初期の夜話は時間も長く、語りもダラダラしているので、やや聞きづらいものとなっております。そこで今回、簡潔にまとめ、画像も入れて文章化することにしました。

※1「しかし、抜けてなんぼ!というエロマンガの価値基準が大部分を占める世界において、感動、喜びが、抜き至上主義より勝った!という出来事は、ある意味エロマンガ界に新しい価値基準を提示し、そして読者がそれを支持した結果であろう。」”少女キャラクターから見る、ゴージャス宝田の作品論”

※2「前回単行本化の際には『それまでエロは読んでなかったケド今回はじめて読みました!』等のお手紙をたくさん頂きました。」『キャノン先生トばしすぎ ぜんぶ射精し!』裏表紙カバー下

このふざけた時代へようこそ――香吹茂之『美脚が欲しいんでしょ!?』

※元は香吹茂之先生の最新刊『即絶頂』のレビューを書くつもりだったのですが、書き始めるとどうしても『美脚が欲しいんでしょ!?』に触れざるを得なくなったので、その部分だけを文章化することにしました。
実質的には以前ツイキャスで話したことの要約に近い文章ですが、ご笑覧ください。

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劇画的なタッチで描かれたいかにも気の強そうな美女が、
ボンデージに身を包みこちらを挑発する。
香吹茂之『美脚が欲しいんでしょ!?』の表紙を見て、「引いて」しまう人も多いだろう。
生真面目なまでにSMの理念に忠実なその真剣さは、見るものをたじろがせても仕方がない。
ところがそれは見かけだけのことにすぎない。香吹茂之の本質は、実はその不真面目さにこそある。


・『北斗の拳』のパロディ


『美脚が欲しいんでしょ!?』は、(カラーページで描かれるプロローグの後)こんな宣言から始まる。
「西暦20XX年、世界経済は崩壊した」
「物流は途絶え/インフラは崩壊/続く暴動・内乱/略奪のすえに/あらゆる産業は死に絶えた/
……だが/人類は絶滅してはいなかった……!」
立ち昇るキノコ雲。地平線まで続く荒野。現れるモヒカンの悪人達。
彼らを蹴散らすのは、拳法「怒鋭襲流昇天脚(どえすりゅう・しょうてんきゃく)」の使い手、条欧沙魔子(じょうおう・さまこ)。
自らをかつて倒し・犯した、謎の女を犯し返すため、暴力の支配する荒野を旅しているのだ。


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↑ふざけた時代にようこそ



そう、本作は『北斗の拳』のパロディだ。いや、『北斗の拳』だけではない。
女が復讐のために旅を続けるという物語の構図は、『修羅雪姫』を代表とし近年では『青猫について』という傑作を産んだ系譜に基づくものであるし、
とある悪役キャラクターのコスチュームは「ストレッチマン」に酷似しているし、
主人公やライバルたちが操る拳法に付けられるもっともらしい解説は、『魁!男塾』を連想させる。
果ては、「群馬最速を目指す走り屋たちの聖地」「日本じゃ二番目だ」といった細かい台詞まで、
本作は他の漫画・映像作品を連想させる描写に満ちている。



・香吹茂之の不真面目さ




無論エロ漫画にパロディという手法はありふれたものである。
が、本作をそうした「ありふれたもの」の一つとみなすのは無理があろう。
拳法家同士のぶつかり合いを描くアクションシーンは、肝心のSMプレイの描写を明らかに圧迫している。
小刻みに挿入されるパロディは、「俺の名は――狼!弩円舞谷狼(どえむや・ろう)!」などという崩壊した言語感覚の台詞と相まって、
「実用的」な読書に必要な注意力を散らせる。
つまるところ、エロを主目的にした作品の中で、アクセントないし副目的としてパロディやギャグをやっているとはとても思えない。
エロさと同等、ないし、エロさを妨害したとしても追求すべき目標として、パロディやギャグをやっているように見えるのだ。


つまり、香吹茂之は、エロやSMだけを真剣に追い求めているわけではなく、「下心」のある作家なのだ。
『美脚が欲しいんでしょ!?』も、ドM専用というわけではなく、見た目よりずっと親しみやすい作品である。



・真面目に不真面目であること



ただし、香吹茂之の不真面目さは並大抵のものではない
「モヒカン闊歩型世紀末でエロ漫画」という、居酒屋で冗談めかして語るような話を、
数百ページ分の長編としてきっちり描ききってみせる。



「なぜ経済崩壊でキノコ雲が上がるんだ!?」などとツッコミを入れ、
薄ら笑いを浮かべながら読んでいた読者も、
まずは剛乳流柔術・ユカリとの対面のシーンにただならぬものを感じ取るだろう。


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↑名乗り合う二人。パースと動線が衝撃を強調する



ここで沙魔子の取る構えの美しさ。
加えてそこには、これまでの動きの勢いと余韻があり、これからとる動きへの構えと緊張がある。
香吹の描く女性のポーズは常に優雅で、特に女体の作る"ひねり"が艶めかしい。
そして彼はエロ漫画界には珍しいアクションの描ける作家でもあり、その絵にはきちんと動きがある。
本作で描かれる拳法家同士の戦闘には、香吹の画力がいかんなく発揮されている。


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↑通称(?)「最も美しい金蹴り」。イナバウアーのようだ。

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↑いかにも香吹的なひねりの利いたポーズ。名乗りシーンほど派手ではないが、足を強調するパースも芸が細かい。



美しさだけではなく、本作の戦闘シーンにはきちんとロジックがある。
相手がこんな技を出したからこんな技を出す、
こんな技を出せば相手がこう動くからそれを読んでこう動く……というような、
格闘漫画らしい技の読み合い・掛け合いが描かれている(技自体は電気アンマなどだが)。


さらに主人公である条欧沙魔子も魅力的だ。
かつては少女らしい少女でしかなかった彼女は、ある女に倒され犯されることによって、
自らに眠る女王の血を目覚めさせる。
彼女が戦うのは人助けのためでも、仇を取るためでもない。
他者を蹂躙する悪を倒し足蹴にすることによって、「ドSを超えたドS」としての、
嗜虐の悦びを得るため
なのだ。
「これは復讐ではない……欲望だ」とうそぶく沙魔子。
読者もいつの間にか、彼女の痛快なエゴイズムに喝采を送り、
そして最強ゆえの孤独に震えるラストシーンの彼女に涙することになるだろう。


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↑決め台詞。第一話と最終話で反復され、ストーリーの輪を閉じる


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↑頂点ゆえの孤独。最強の女王となったそのとき、ひとりの少女に戻る沙魔子。


迫力と美に満ちた戦闘シーン。殺るか殺られるかのサスペンス。強烈な動機と魅力的な歪みを持つ主人公。
そう、本作はあまりの不真面目さゆえに、大真面目にパロディに精を出すこととなり、
『北斗の拳』、『修羅雪姫』といった漫画の本質まで移植してしまった。
結果、パロディの範疇を超え、独立したバトルアクション漫画として成立してしまっているのである。




・何を読んでいるのか




無論、本作がエロくないわけではない
ちゃんと一定の量のセックス描写は用意されているし、プレイも濃厚だ。
だが明示的にエロシーンとして用意されたコマよりも、
格闘アクションでの沙魔子の妖艶な表情や美しい姿勢の方が、ずっと興奮を掻き立てる。


『美脚が欲しいんでしょ!?』は、不真面目なパロディを徹底するほどに、
バトルアクション漫画として、あるいはエロ漫画として真面目になっていくという奇妙な作品だ。
不真面目な傑作の多い香吹の中でも、「何を読んでいるのかわからないがとにかく面白い!」という
目眩のする快感
を最も感じられる。
一味違うエロ漫画を読みたい諸氏には絶対にお勧めできる一作である。

間男のパラドクス――傾向音「寝取られ妻との性生活」

傾向音「寝取られ妻との性生活」(Dliste.com)



寝取られジャンルの本質(の一部)は「マゾヒズム」にあるといってよい。
主人公が大切な人を間男に性的能力によって奪われてしまう、という「寝取られ」の物語構造は、視点を変えれば、大切な人によって主人公の性的能力が低く見積もられ、馬鹿にされているということに等しい。
すなわち寝取られは、寝取られるヒロインをS、主人公をMとしたSMとみなすことができるわけである。
この被虐性が寝取られの本質の重要な一部である。



だがもしもこれが正しいならば、マゾヒズムジャンルとしての寝取られにとっては、間男の存在は副次的なものに過ぎない。
浮気する女=S、主人公=Mの二者関係こそが中心であり、間男は責めのための装置ということになる。
間男は寝取られの構造が成立するための不可欠な支点でありながら、それ自体としては重要ではない――いわば「空虚な中心」というわけだ。
サークル「傾向音」のCG集『寝取られ妻との性生活』は、この逆説をまともに作品化した結果、「奇作」と言いたくなるような構造を持つことになった。
なにしろ、寝取る間男がまったく登場しないのだ!



主人公は念願かなって手に入れたマイホームで、妻の菜緒とともに新生活を始めたばかりのサラリーマン。
だが少し前から菜緒の様子がおかしい。急にセックスに積極的になったのだ――。本作はこんな風に始まる。



もちろん寝取られジャンルの「お約束」として、菜緒は間男「須藤」にセックスの快感によって寝取られている。
だが本作の画期的な点は、本編が始まったときにはすでに菜緒は完全に調教されきっているため、間男によって菜緒が寝取られる肝心の過程がまるごと省略されている、という点にある。
いや須藤と菜緒のセックスどころか、須藤自体がこの物語にはまったく登場しない。
これは異常事態である。普通寝取られ作品は、「調教もの」のサブジャンルとして、寝取られるヒロインが「堕ち」るまでの過程を重視して描き、「堕ち切る」瞬間をクライマックス(最大の「抜きどころ」)とする。
だが本作では、そうした寝取られ作品の中心となるべき描写が丸ごと欠落しているのである。



むしろ本作は、主人公と妻の菜緒の間のプレイを中心に描いている。ただし、「本番」は序盤だけ。
中盤以降、主人公の射精は妻によって徹底的に管理され、手淫や言葉責めによってのみ達することが許される。菜緒への挿入は須藤だけが可能な特別な行為だからだ。



後にわかるのは、菜緒が主人公をいわば「財布」として活用するため、彼をMとして開発していたという事実である。
主人公を被虐の快感で縛ることで、自らに従う奴隷とする。
主人公が購入したマイホームや、毎月の収入などを彼女が搾取し、須藤に貢ぐことで、須藤の正妻に近い位置を得ようというのだ。
つまり本作は、菜緒によって主人公が調教されていくSM作品なのである。
であってみれば須藤の不在はそれほど不自然ではない。重要なのはサディストの妻とマゾヒストの主人公の間の二者関係であり、須藤の存在は舞台設定の一部にすぎないからだ。
(主人公の奴隷化計画が菜緒の主体的な発案によるものであるという点は指摘しておくに値する。
つまり主人公は須藤でなく、妻に陥れられたのだ。本作で描かれるのはあくまで二者の搾取関係である)



そして既に述べたように、それは寝取られの、マゾジャンルとしての本質からの帰結でもある。
寝取られ的な見せ場の不在によって、逆に寝取られの本質が不純物なく露わになっているといえよう。
サークル「傾向音」は寝取られというよりはSMジャンルで活動してきた作り手であり、だからこそジャンル内部で見過ごされがちな側面を引き出して見せることができたのだろう。



ちなみに須藤の不在は、寝取られの本質を露わにするのみならず、もっと直接的な物語的効果も生んでいる。
須藤と菜緒のセックスは明示的に描かれない。からこそ、読者は菜緒や朋の自分に対する罵倒からそれを想像するしかない。
結果、直接描いた場合以上に、性的怪物須藤に、菜緒が虜にされてしまったという印象が膨らんでいく。
比較して自らの不能性に対する絶望、須藤に対する嫉妬は高まり、SM作品・寝取られ作品としてのテンションは却って増していくこととなるわけである。



間男を空虚な中心として設定した本作は、一見寝取られの邪道を行くように見えて、
実は寝取られジャンルのある側面を見事に切り出し、エクストリームに突き詰めて見せた、王道を行く傑作である。
同じ2016年に出版され、逆に「サディズムとしての寝取られ」を暴露して見せたkiasa『ひなたネトリズム』と合わせて読むことで、「寝取られ」ジャンルを両極端から眺めることができるだろう。

<関連記事>
なぜわざわざ寝取られなんて読むのか?
寝取られの魅力を「主観的ギャップ」と「マゾヒズム」として説明した記事。

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