FC2ブログ

ノスタルジーの普遍化――ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ! ぜんぶ射精し!!』

前回の記事では、ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ!』が感動的である理由を、『キャントば』のドラマ性に焦点を当て、『ロッキー』という補助線を引いて説明した。
だが『キャントば』の魅力をそれだけで解き明かせるとは思わない。
今回は視点を変えて、『キャントば』の「メタエロ漫画」としての特徴に注目してみよう。



canon.jpg


・「エロ漫画論」としての『キャントば』



『キャントば』は、「エロ漫画について語る漫画」=「メタエロ漫画」だ。それは単に、主要登場人物のほとんどがエロ漫画家であるということではない。
『キャントば』においては、「エロ漫画とは何か?」あるいは「エロとは何か?」という問いが、登場人物によって問われ答えられていく。その結果として、エロ漫画やエロへの賛歌が語られる。
『キャントば』は要するに「エロ漫画論」として読めるエロ漫画なのである。


だが、「エロ漫画論」として読めるということは、「エロ漫画論」であることとイコールではない。
「エロ漫画論」にとって重要なのは、結論とそれを支える議論・データといったものだろう。
だが、前回も一度述べたように、『キャントば』はエロ漫画であり、作品である。したがってその魅力を見定めようというとき、「メタエロ漫画」としての側面に注目するとしても、重要なのは語られるメッセージの内容そのものではない。メッセージをどう漫画作品としてコーディングしたかという、メッセージの提示の仕方であろう。
そしてその点において、『キャントば』は、非常に巧妙な戦略※と、小さくないミスの双方を顕わにしているように私には思われる。
以下、順に説明していこう。



・時代性と普遍性の両立



宝田自身が述べているように『キャントば』は実は時代性を強烈に刻印された作品である。
「個人的には40代くらいのオッサンのノスタルジーを込めたつもりだったのですが同年代の方だけでなく以外(原文ママ)とお若い皆さんにも共感を頂いているようでおどろくと同時にエロとか恋愛とか若い頃に感じる漠然とした疎外感みたいなものは年代を問わず不変のテーマなのかなと思ったりもします」(新装版カバー下コメントより)


私が「時代性」と呼び、そしておそらく宝田が「ノスタルジー」と呼んだのは要するに、主人公・貧太のトラウマの内実である。
貧太の学生時代は(彼自身の言葉を使えば)「オタク迫害」の全盛期であり、彼はオタクであることを理由に壮絶なイジメにあっていた。
自らの趣味趣向を素直に認められなくなってしまった彼を救ったのは、道端で拾ったエロマンガの、背景に書き込まれた落書きである。そこには当時放送されていたアニメ『アイドル剣士 夢見るムミル』についての、作者の性的な妄想が堂々と綴られていたのだ。
それを見て彼は、自らの性欲を恥じずに堂々と謳いあげるために、エロマンガ家への道を志す。つまり彼にとって(あるいはこの作品にとって)エロマンガは、自分の性を恥じること無く自身の一部として受け入れる、あるいはそんな自分自身を世界に向け堂々と主張するためのもの、つまりアイデンティティの根拠なのだ(前回の記事も参照のこと)。もう一度貧太のセリフを引用しておこう。
「こんな時代にっ…きっと/たくさんの人が見ているハズのマンガの中にっアニメの中の少女が「好きだ」って…(中略)僕も叫んでみたいっ/この作者みたいに…/僕だって美少女が好きだぞって…/アニメやマンガの女の子が好きで…僕はオタクだぞ…って」


貧太自身が述べているように、『キャントば』が連載された2006-2007年当時、そしてもちろん現在も、オタクであることが即イジメや差別の対象となるほどオタク迫害は苛烈ではない。
したがって貧太が学生時代に経験した苦しみは、もっと前の時代――特に貧太の30歳という年齢を考えるならば、1989年の宮崎勤による連続少女誘拐殺人事件、及びそれにともなうオタクバッシングの記憶が刻印されているものと考えるべきであろう。
また彼のトラウマを癒した「背景の落書き」についても、やはり現代のエロマンガにはめったに見られない。
こうした点で『キャントば』は、ある特定の時代の実感を記録した作品であると言える。



resize4432-1.jpgresize4432-2.jpg
↑おそらく宮崎勤事件が投影されているのではないか



もしも『キャントば』のエロ漫画論が、あくまで貧太のトラウマと癒しという形でのみ語られるのであれば、それは時代性に基づく切実さこそあれど、あくまで特定の時代に生きたオタクの極めて世代依存な心情吐露として(宝田自身が予想したように)理解されてしまったかもしれない。
だが『キャントば』は初めて単行本化された当時から多くの読者に支持され、また2016年に再販されさらに共感の輪を広げてさえいる。
なぜそのようなことが可能だったのか?
本作のエロ漫画論が、貧太のみならずキャノン先生にも仮託されているからである。


resize4433.jpgresize4434.jpg
↑二人のトラウマが重ねられる


キャノン先生は、幼いころに両親のセックスを目撃したことをきっかけに、性に強烈な興味を持つに至った。そのため、普通の少女とは異なる言動を表すようになる(たとえば小学校で「大きくなったらSEXをしたいです!」と発表するなど)。
結果として彼女は親や先生に怒られたり、同級生からイジメを受ける。
終盤で貧太に向け放たれる「Hだと/怒られたり/笑われたり…/イジメられたりするのは…っ/何故ですか?!」という彼女の慟哭には、彼女のつらい過去が込められている。



resize4439.jpg
↑文字通り「目の色を変えた」キャノン先生。キャラクターの表情をダイナミックに、ときにほとんど原型をとどめないほど変化させるのは宝田の十八番だ



彼女の苦しみを癒し、「作品」としてのエロマンガに昇華させたのは他ならぬ貧太だった。
本作におけるキャノン先生の過去描写はほとんどセリフがなく、キャノン先生が貧太の漫画に出会う場面でも、食い入るように貧太の漫画を読み、頬を赤らめるキャノン先生の顔だけが描写されている。
ここで暗示されているのは、様々なエロ漫画、特に貧太の作品が、キャノン先生のエロへの渇望を肯定し、漫画という形で作品化することを励ました――そして大エロマンガ作家「巨砲キャノン」が誕生した、ということ(そしてもちろん、そのことこそがキャノン先生の貧太への恋心のきっかけであったということ)である。



resize4435.jpg
↑おそらく貧太同様、拾った漫画雑誌を読んだのだろう



本作では明らかに、キャノン先生が貧太のトラウマと癒しを再演した存在として描かれている。
それは、「イジメ」「漫画による癒し」といった要素だけを抜き出してみても明らかだし、また、先ほど引用したキャノン先生の慟哭に答えるのが貧太であるということ――つまり二人は問いと答えを共有している――からも見て取れる。


だがもっと重要なのは、重ねられている二人のトラウマの間には微妙なズレがあるということだ。
2人がトラウマを植え付けられた時代が違うのは当然として、トラウマの理由についても差異がある。
貧太が「オタクであること」を理由に、ある時代に特有の社会的風潮から抑圧を受けたのに対して、キャノン先生は「幼いにもかかわらず性に興味がある」ということを理由に、「子供が性に興味を持つべきでない」という比較的広い時代で通用する道徳意識に基づき怒られ、笑われている。
要するに、二人が直面している具体的な問題は別物なのだ。


にもかかわらず両者を、同じ悩みと癒しを再演した存在として重ねるとすれば、それは問題の抽象化に他ならない。
つまり、「オタク差別」や、「子供にとってのタブーとしてのセックス」といった問題が、「忌避され、蔑まれる物としての性・エロ」という抽象的な問題のもとに包摂され、ひとくくりにされているのだ。
そう、本作のエロ漫画論が「ノスタルジー」ないし時代に局限された実感から出発しながら、同時に普遍的な共感を得ることに成功しているのは、貧太とキャノン先生の相互にズレたトラウマと癒しを重ね合わせることで、問題を抽象化することに成功しているからなのだ。


例えば多くの男性が、エロ本を同居人(親など)からどう隠すか、頭をひねらせたことが一度くらいはあるはずだ。あるいは腐女子の人なら、自分がBL好きであることを周りから隠そうとした経験があるかもしれない。
「忌避されるものとしての性・エロ」として抽象的にとらえられた問題関心は、具体的な発現の仕方は様々あれど、誰でも思い当たるような普遍的なものである。
そして読者の特殊具体的なエロについての悩みやモヤモヤが、抽象化された問題関心を媒介としてキャノン先生や貧太のトラウマと共感でつながるとき、読者がキャノン先生や貧太の癒しをさらに再演することとなる。というのも読者もまた、『キャノン先生トばしすぎ!』という漫画作品によって自らのエロさを肯定されることになるのだから。
読者を作品に巻き込むこの巧妙な構造こそが、エロ漫画論を語るメタエロ漫画としての『キャントば』が、多くの読者を感動させる理由である。



・落書きについて



ここまで分析してきたように、『キャントば』は、読者の共感と感動を誘うよう巧妙に作られた作品である。
しかし、私はメタエロ漫画としての『キャントば』には、ひとつのミスがあるとも考えている。
というのも、『キャントば』は本当の意味でエロ漫画への愛を謳いあげることに失敗している――むしろエロ漫画以外の何かへの愛をこそ語っているように読めてしまうのだ。


既に述べてきた通り、『キャントば』では、貧太が自らのトラウマを、エロ漫画を読むことをきっかけにして癒す過程が描かれる。そこには、『キャントば』を読んで感動する読者が重ねられているということもまた、既に述べた。ゆえに、本作は読者へ「エロ漫画の素晴らしさ」を語るものとなっているように見える。しかし、本当だろうか?


もう少し細かく見てみよう。貧太の癒しのきっかけになったのは、実はエロ漫画ではない。エロ漫画の中の落書きの文章である。また『キャントば』の中で感動的な部分のほとんどは、エロシーンではない。貧太・キャノン先生の過去回想シーンや、エロ漫画に真剣に向かう貧太を描くシーンである。つまり、エロ漫画としての『キャントば』の中では、いわば「背景の落書き」というようなシーンである。



resize4436.jpgnamidaga.jpg
↑背景の落書きに感動する貧太――を描くこのシーン自体がエロマンガとしての『キャントば』にとっては「背景の落書き」であるという、自己言及的な構造がある



背景の落書きの文章を読んで涙を流す貧太、『キャントば』の非エロシーンを読んで感動する読者――が重なるとき、「エロ漫画」にとってもっとも根本的であるはずの、エロいシーンとそれを読んで興奮する読者という対は、すっぽり抜け落ちているのではないだろうか?つまり実は、「エロ漫画」そのものの素晴らしさは語られてはおらず、もっと違うものが称揚されていることにならないか?


このことに気づくとき、貧太が読んだ背景の落書きが、アニメ作品について語った文章であるというのは示唆的な意味を持ってしまう。「アニメについて語る」落書き、「エロマンガについて語る」『キャントば』の非エロシーン、そうしたものが、アニメやエロ漫画そのものよりも重要なものであるかのようにも読めてしまうのだ。つまり、『キャントば』は、エロ漫画そのものというよりも、作品についてのメタ視点からの「語り」への愛を謳っているようにも読めてしまうのだ。
もしも以上の読解を採用するなら、本作は「エロ漫画愛」を語ることに失敗している。むしろ、エロ漫画そのものに誠実に向き合えていないという批判を受けても仕方ないだろう。エロ漫画論をエロ漫画のなかにコーディングしきれず、メタな役割を担う非エロシーンとエロシーンが分離してしまった結果、ネガティブな読解の可能性を生んでしまっている、と言ってもいい。


・最後に


以上、『キャントば』のメタエロ漫画としての特徴を分析してきた。
最後に述べたように、私は『キャントば』は小さくない問題を抱えた作品だと考えている。しかし、この記事の前半で分析したような、時代的な強度と普遍的な共感を両立させる見事な技巧や、前回述べた「ロッキー」的な負け犬物語を描く脚本は、そんな欠点を補って余りある。何度も強調してきたように本作は、エロ漫画ファンが共感できるようなメッセージがあるから名作なのではない。端的によくできているのだ。これほどまでにウェルメイドなエロ漫画を私は他に知らない。もしもあなたがまだ本作を読んだことがないのならば、ぜひとも新装版を手に取って読んでみてほしい


※以下で「戦略」や「技巧」というとき、作者自身の意識や意図の存在は含意していない。あくまで、結果的にある特定の効果を発揮してしまった(結果的に「戦略」や「技巧」として機能した)作品の特徴のことを「戦略」や「技巧」と読んでいる。後に引用する宝田のコメントを読んでもらえば分かる通り、本記事で私が指摘した「戦略」について、宝田自身は意識的でなかったように見える。
スポンサーサイト
FC2公認の男性用高額求人サイトが誕生!
稼ぎたい男子はここで仕事を探せ!
デリヘルもソープもイメクラも気に入った子がきっと見つかる
超大型リニューアル中の大好評風俗情報サイト!

エロマンガ夜話 第35回 鬼ノ仁『僕の麻利恵さん』

毎回1つの成人向けマンガを選んで語り尽くすツイキャスエロマンガ夜話。
 2/12の第35回放送では、めぐりさん@meg_bardからのリクエストで、鬼ノ仁先生の『僕の麻利恵さん』を、レギュラーメンバー

新野安@atonkb
まいるど@mairanaid


で語りました。



marie.jpg








 ログはこちら。

 その1
 その2
 その3


 キーワード:余韻/絵柄のトレンド変化/アップグレード/テーマの変化/リアリティラインの変化/メーテル/ブラックジャック/宮沢賢治/田舎/外へ/反成熟/長髪/打ちっぱなしのコンクリート/山本直樹/ちょっと寝取られ風/自分との闘い/長編エロマンガのジレンマ


次回は2/26 23:00より、ディビ先生の『その指先でころがして』を扱います。

配信URLはこちら

新野安@atonkbのツイッターアカウントで情報をご覧ください。
リクエストやお便りはこのブログのコメント欄か、ツイッターのリプライ・DMなどで受け付けております。どしどしどうぞ。

『キャントば』は『ロッキー』である――ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ! ぜんぶ射精し!!』

2016年のエロ漫画関連ニュースの中で私にとって特に大きな驚きだったのは、
2008年にオークスから一度刊行され、その後絶版となっていた、ゴージャス宝田『キャノン先生トばしすぎ!』の再販であった。※0

canon.jpg


そもそもエロ漫画が装いを変えて再販されること自体が珍しいことだが、
口リ作品である『キャントば』が、巨乳ヒロインがトレードマークのエンジェル出版から再販されるというのだ。
このような異例の出来事が実現したのもひとえに『キャントば』が、
エロマンガを代表する名作として、エロマンガファンの広くはない枠を超えるほどの支持を集めているからであろう。



・『キャントば』はなぜ感動的なのか?



『キャントば』は、思うように活躍できないまま中年に差し掛かった遅筆のエロマンガ家である貧太(表紙の男性)が、
大ヒットエロマンガ家でありながら未成年の少女であるキャノン先生(表紙の少女)と愛を深めつつ、
作家として再起しようと奮闘する物語だ。


本作はエロマンガ界でも特殊な立ち位置を持つ作品である。というのも、稀見理都がすでに指摘しているように、
「抜く」ことを究極の目標とするはずのエロマンガでありながら、「エロいか否か」とは別の軸――つまり「感動」という軸で、
広く高い評価を受けているのだ。※1
では『キャントば』が「感動の名作」として受け入れられることになったのはなぜだろうか?


一つの可能な説明は、『キャントば』が伝えているメッセージにその原因を求めるものだ。
後に詳しく確認するが、『キャントば』は「エロ漫画とは何か?」「人間にとってエロとは何か?」という問いを投げかけ、
答えとして力強くエロ漫画やエロを肯定するという、「メタエロ漫画」としての性格を持っている。
そのメッセージが、特にエロ漫画読者にとって感動的である、というのは、
『キャントば』への賛辞としてしばしば語られることである。


しかし、この説明はどこまで説得的だろうか?
新装版のカバー下で宝田自身が語っているように※2、『キャントば』の顕著な達成の一つは、
それまでエロマンガを読んだことがないような読者にまでリーチし、評価を勝ち得たという点にある。
このことを考えるとき、『キャントば』のもつ感動を、「エロ漫画賛歌」によって説明することは、
一見するほど有効でないと言わざるを得ないのではないか。


また、そもそも良いメッセージを語っていることが、必ずしも感動的な漫画を生むことにはならない。
漫画はスローガンや論文ではない。重要なのは、メッセージをどのように作品としてパッケージするかという点にある。



・メッセージからドラマへ。『キャントば』=『ロッキー』説



思うに『キャントば』が感動的なのは、そのメッセージの感動と同程度、あるいはそれ以上に、
そのドラマの持つ構造の強靭さに理由がある。
単刀直入に結論を述べれば、『キャントば』が感動的なのは、
『キャントば』が『ロッキー』であり『ロッキー』が感動的であるからだ、と言いたい。


『ロッキー』は、1976年に公開された、S・スタローン脚本・主演のボクシング映画である。
今更説明するのも馬鹿馬鹿しいほど有名な作品だが、負け犬ボクサー・ロッキーが、
人生の逆転をかけて世界チャンピオンとの試合に挑む、というお話の映画だ。


Rocky-Poster.jpg
↑私などはポスターを見ているだけでもう泣けてくる


・『ロッキー』と『キャントば』 人物関係の視点から


『ロッキー』と『キャントば』が、そのドラマ・ストーリーに注目したとき、いかに似ているのか。
まず人物関係という側面から見てみよう。


『キャントば』は、うだつのあがらない中年エロ漫画家・貧太が主人公だ。
彼はキャノン先生という恋人と出会い愛をはぐくむ。
彼の前には若手のホープ・海乃がライバルとして立ちはだかる。
キャノン先生の愛と、編集長の厳しい叱咤を受けながら、
貧太は自らの作品を書き切るべく努力する。


一方『ロッキー』は、うだつのあがらない中年ボクサーロッキーが主人公であり、
彼はエイドリアンという恋人と出会い愛をはぐくむ。
後に生涯のライバルとなるアポロ・クリードに対峙し、
エイドリアンの愛と、老トレーナーミッキーの叱咤とともに、
タイトルマッチを戦い抜く。


このように整理すると、


貧太ロッキー
キャノン先生エイドリアン
海乃アポロ
編集長ミッキー



という形での対応が見えてくるだろう。
つまり、メインキャラクターとその間の人物関係が、ほとんど一対一で対応しているのである。
(ただし、エイドリアンの兄・ポーリーは『キャントば』に対応するキャラクターがいない。
また当然だが対応づけられたキャラがなにからなにまで全く同じ存在だというわけでもない。
あくまでそれぞれの人物の役割と相互関係が、ある程度類似している、ということである)


resize4433.jpgresize4434.jpgresize4431.jpgresize4432.jpg
↑貧太、キャノン先生、海乃、編集長。ロッキー、エイドリアン、アポロ、ミッキー、にほぼ対応する


『ロッキー』は、その名前に反し、ロッキーだけの物語ではない。
ロッキーを取り巻く人々がそれぞれに抱えているドラマや、彼らとロッキーとの人間関係といったサブプロット群が、
メインプロットに有機的に絡むことで、豊かな感動をもたらしている。
『キャントば』もまた同様である。上述の人間関係に基づいて、
非エロシーンにページを割きづらいエロ漫画というメディアにおいては例外的なほど、複雑なサブプロットが語られる。
そうした枝の一つ一つが幹であるメインプロットに一気に合流し、物語全体を解決に導くという展開の妙が、
『キャントば』終盤の感動を生んでいるのだ。



・『ロッキー』と『キャントば』 主人公の動機という視点から



次に、メインプロットの骨格をなす、主人公の動機に目を向けてみよう。
『ロッキー』も『キャントば』も、どん底に陥った主人公が、
自らが戦うべき・ペンを振るうべき動機に立ち返ることによって復活することが、
クライマックスの解決に向けての「てこ」となる。
その場面で主人公が話すことになるセリフを振り返ってみよう。


rocky_201702020026581cb.png


アポロ・クリードとの戦いの前夜、今までに立ったことのない大掛かりな試合会場を下見したロッキーは、
自らがとてもチャンプになれる器ではない、ということを悟ってしまう。
弱気なロッキーを慰めようとするエイドリアンに、彼は次のように話す。
「だめだ。勝てないよ。(中略)だがどうでもいい。負けてもどうってことはねえんだ。脳天を勝ち割られても関係ない。最後までやる(go the distance)だけだ。クリードと最後までやりあった奴はいない。もし俺が15ラウンド戦って、ゴングが鳴ってもまだ立っていられたら、おれは初めて、自分がただのごろつきじゃないって実感できる


一方で、原稿を雑誌に載せることができる最後のチャンスにもかかわらず、期限までの入稿が絶望的になってしまった貧太は、
自らがなぜエロマンガ家を志したかを思い出す。
オタクが迫害されていた時代(本作には宮崎事件の記憶が投影されている)を過ごしていた少年の彼は、
イジメを恐れ、自らの趣味嗜好を隠し生きることに疲れ切っていた。
そんなとき彼は道端でエロマンガを拾い、欄外の落書きの内容に涙を流す。
「こんな時代にっ…きっと/たくさんの人が見ているハズのマンガの中にっアニメの中の少女が「好きだ」って…(中略)僕も叫んでみたいっ/この作者みたいに…/僕だって美少女が好きだぞって…/アニメやマンガの女の子が好きで…僕はオタクだぞ…って


namidaga.jpg


自らの原点を辿りなおした貧太は、間に合うはずのない原稿に向かい、キャノン先生に宣言する。
間に合わないかもしれません…いえっ間に合うハズがありませんっ/わはははははっ/でもやるんですっ僕は…/やらずにはおくものかっ」


demoyaru.jpg


二人のセリフは一見全く違ったトピックについて語っているようで、本質的な2つの点で共通している。
一つ、両者にとってそれぞれの仕事(ボクシング・エロ漫画)が、
自らのアイデンティティの根拠となっているという表明である。
そしてもう一つはそれゆえに、自らが納得できるまでやるということが重要なのであり、
客観的な成功(タイトル獲得・期限内の入稿)は二の次であるということだ。
本当に重要なのは相手や締め切りに勝つことではない。自分自身を恥じないためのプライドを掴むことだ。
そのために戦うからこそロッキーのボクシングは、そして貧太の努力は胸を打つのだ。


・『キャントば』が『ロッキー』を超えた場所



以上のように、主人公を取り巻く人物関係、および主人公の動機という二つの面から、
『ロッキー』と『キャントば』のストーリーの類似性を見て取ることができる。
『ロッキー』のストーリー構造が優れており、
そこで描かれるドラマ――負け犬のプライド、不器用な青春と愛、師との衝突と和解――が多くの観客の共感を誘ってきたということは、
『ロッキー』が歴史に残る名作とされ、いまだ多くの涙と感動をもたらしていることで証明されている。
『キャントば』が感動的なのは、このような強靭な脚本の構造を、
(実際の影響関係はどうあれ結果的には)エロ漫画についての話として見事に換骨奪胎し、
語りなおしているからなのだ。


ただしもちろん、『キャントば』は単に『ロッキー』を"移植"した作品ではない。
『キャンとば』にあって『ロッキー』にない美点として、キャノン先生のキャラクター設定がある。


『ロッキー』におけるエイドリアンは、基本的にはロッキーを支える存在として設定されており、
彼女自身のこだわりや欲望といったものはあまり前面に出されない。
彼女がロッキーを叱咤できるほどの積極性を得るまでには、『ロッキー3』まで待たねばならない。
対して、キャノン先生は、貧太をけなげに愛し、彼を支える少女としての側面をもちろん備えているが、
同時にエロに関する重大なトラウマを克服しようという自分自身の動機を持ち、
さらに、一流エロ漫画家として貧太を導く存在でもある。
このような複雑な性格と確かな自我のおかげで、キャノン先生はとても魅力的なヒロインとなっている。



(続きます。次回は、『キャントば』のメタエロ漫画としての性格を分析します。個人的には『キャントば』は優れた作品だと思いつつもどうしても好きになりきれない点があるのですが、その理由なども説明するつもりです。)

===========

※0この記事、及びこの記事の続編は、実質的にはエロマンガ夜話第二回で新野が語った『キャントば』論の要約・敷衍です。ただし初期の夜話は時間も長く、語りもダラダラしているので、やや聞きづらいものとなっております。そこで今回、簡潔にまとめ、画像も入れて文章化することにしました。

※1「しかし、抜けてなんぼ!というエロマンガの価値基準が大部分を占める世界において、感動、喜びが、抜き至上主義より勝った!という出来事は、ある意味エロマンガ界に新しい価値基準を提示し、そして読者がそれを支持した結果であろう。」”少女キャラクターから見る、ゴージャス宝田の作品論”

※2「前回単行本化の際には『それまでエロは読んでなかったケド今回はじめて読みました!』等のお手紙をたくさん頂きました。」『キャノン先生トばしすぎ ぜんぶ射精し!』裏表紙カバー下
プロフィール

Author:yawa.ero
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる