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間男のパラドクス――傾向音「寝取られ妻との性生活」

傾向音「寝取られ妻との性生活」(Dliste.com)



寝取られジャンルの本質(の一部)は「マゾヒズム」にあるといってよい。
主人公が大切な人を間男に性的能力によって奪われてしまう、という「寝取られ」の物語構造は、視点を変えれば、大切な人によって主人公の性的能力が低く見積もられ、馬鹿にされているということに等しい。
すなわち寝取られは、寝取られるヒロインをS、主人公をMとしたSMとみなすことができるわけである。
この被虐性が寝取られの本質の重要な一部である。



だがもしもこれが正しいならば、マゾヒズムジャンルとしての寝取られにとっては、間男の存在は副次的なものに過ぎない。
浮気する女=S、主人公=Mの二者関係こそが中心であり、間男は責めのための装置ということになる。
間男は寝取られの構造が成立するための不可欠な支点でありながら、それ自体としては重要ではない――いわば「空虚な中心」というわけだ。
サークル「傾向音」のCG集『寝取られ妻との性生活』は、この逆説をまともに作品化した結果、「奇作」と言いたくなるような構造を持つことになった。
なにしろ、寝取る間男がまったく登場しないのだ!



主人公は念願かなって手に入れたマイホームで、妻の菜緒とともに新生活を始めたばかりのサラリーマン。
だが少し前から菜緒の様子がおかしい。急にセックスに積極的になったのだ――。本作はこんな風に始まる。



もちろん寝取られジャンルの「お約束」として、菜緒は間男「須藤」にセックスの快感によって寝取られている。
だが本作の画期的な点は、本編が始まったときにはすでに菜緒は完全に調教されきっているため、間男によって菜緒が寝取られる肝心の過程がまるごと省略されている、という点にある。
いや須藤と菜緒のセックスどころか、須藤自体がこの物語にはまったく登場しない。
これは異常事態である。普通寝取られ作品は、「調教もの」のサブジャンルとして、寝取られるヒロインが「堕ち」るまでの過程を重視して描き、「堕ち切る」瞬間をクライマックス(最大の「抜きどころ」)とする。
だが本作では、そうした寝取られ作品の中心となるべき描写が丸ごと欠落しているのである。



むしろ本作は、主人公と妻の菜緒の間のプレイを中心に描いている。ただし、「本番」は序盤だけ。
中盤以降、主人公の射精は妻によって徹底的に管理され、手淫や言葉責めによってのみ達することが許される。菜緒への挿入は須藤だけが可能な特別な行為だからだ。



後にわかるのは、菜緒が主人公をいわば「財布」として活用するため、彼をMとして開発していたという事実である。
主人公を被虐の快感で縛ることで、自らに従う奴隷とする。
主人公が購入したマイホームや、毎月の収入などを彼女が搾取し、須藤に貢ぐことで、須藤の正妻に近い位置を得ようというのだ。
つまり本作は、菜緒によって主人公が調教されていくSM作品なのである。
であってみれば須藤の不在はそれほど不自然ではない。重要なのはサディストの妻とマゾヒストの主人公の間の二者関係であり、須藤の存在は舞台設定の一部にすぎないからだ。
(主人公の奴隷化計画が菜緒の主体的な発案によるものであるという点は指摘しておくに値する。
つまり主人公は須藤でなく、妻に陥れられたのだ。本作で描かれるのはあくまで二者の搾取関係である)



そして既に述べたように、それは寝取られの、マゾジャンルとしての本質からの帰結でもある。
寝取られ的な見せ場の不在によって、逆に寝取られの本質が不純物なく露わになっているといえよう。
サークル「傾向音」は寝取られというよりはSMジャンルで活動してきた作り手であり、だからこそジャンル内部で見過ごされがちな側面を引き出して見せることができたのだろう。



ちなみに須藤の不在は、寝取られの本質を露わにするのみならず、もっと直接的な物語的効果も生んでいる。
須藤と菜緒のセックスは明示的に描かれない。からこそ、読者は菜緒や朋の自分に対する罵倒からそれを想像するしかない。
結果、直接描いた場合以上に、性的怪物須藤に、菜緒が虜にされてしまったという印象が膨らんでいく。
比較して自らの不能性に対する絶望、須藤に対する嫉妬は高まり、SM作品・寝取られ作品としてのテンションは却って増していくこととなるわけである。



間男を空虚な中心として設定した本作は、一見寝取られの邪道を行くように見えて、
実は寝取られジャンルのある側面を見事に切り出し、エクストリームに突き詰めて見せた、王道を行く傑作である。
同じ2016年に出版され、逆に「サディズムとしての寝取られ」を暴露して見せたkiasa『ひなたネトリズム』と合わせて読むことで、「寝取られ」ジャンルを両極端から眺めることができるだろう。

<関連記事>
なぜわざわざ寝取られなんて読むのか?
寝取られの魅力を「主観的ギャップ」と「マゾヒズム」として説明した記事。

新刊レビュー・赤月みゅうと『リンガフランカ!!』

linga-h.jpg



最近発売された赤月みゅうと先生の新刊本について、以前やったツイキャスとの関連で少し書いてみたくなったのでレビューしたいと思います。


【あらすじ】


『リンガフランカ!!』は2016年にティーアイネットより発売された、赤月みゅうと先生の七冊目の単行本。
裏表紙にあるあらすじは以下のようなものです。



レオとヒマリは飛行機で旅をしていたが、マシントラブルで島に不時着!島は少女ばかり108人の楽園だった!そしてレオは祭りの生贄として少女達に輪姦されてしまった!そんな中、レオは島で唯一の奴隷・カルアに連れられ、島の支配者・ペディと出会うのだった。
レオとヒマリは脱出できるのか!?
それともレオは生贄とされ続けるのか!?
赤月みゅうとの創る至高のハーレム開幕!!




ちょっとこれだけ読んでもわかりにくいのですが、ようするに、不時着した場所が女だらけのハーレムだった…というようなお話です。



【赤月流ハーレム】


赤月みゅうと先生と言えばとにかくハーレム作品で有名です。
そしてさらに、先生の書くハーレム作品は、全体として極めて一貫した方向性を持っています。


「赤月流ハーレム」とでもいうべきこの方向性については以前のツイキャスで詳しく分析しましたが、ここでもう一度、箇条書きで整理したいと思います。



「赤月流ハーレムの法則」
1)「人間を非人間化するシステム」としてのハーレムが描かれる。具体的には、
    1a)<ゾンビとしての美少女>十分に個別化されていない、交換可能な存在としての美少女が大量に(二ケタ以上)存在する
        →これによって、美少女がハーレムの「駒」として、非人間化されている様子が強調される。
    1b)<管理ハーレム>自由意思でなく、権力や管理によってハーレムが運営されている。
        →ハーレムがシステムとしての性格を持ち、人間性を奪うものとして描かれる。
    1c)<ズレた中心>欲望の主体たる男性とは別に、ハーレムを生成し管理する中心が存在する。
        →男性主人公すら、ハーレムの「駒」に過ぎないものとして描かれる。
2)主人公の「罪の自覚」によってハーレムが破壊されることで物語が終幕する。



エッセンスだけ抜き出せば、『少女×少女×少女』から『奴隷兎とアンソニー』まで、短編から長編まで、すべて以上のような構造を持った話だと言えます(『なつみつハーレム』がどのように位置づけられるかなど、細かい話についてはツイキャスを聞いてください)。


『少女×少女×少女』収録の中編「祭子」を例にとれば、例えば、同作には主人公を十数人の美少女が取り巻くハーレムが描かれますが(<ゾンビとしての美少女>)、彼女たちは恐怖によってハーレムの中に閉じ込められています(<管理ハーレム>)。ハーレムを作り出し、恐怖によって維持しているのは、主人公の父親です(<ズレた中心>)。最終的には、(ネタバレなので詳述は避けますが)主人公が自分の中にある暗黒面を直視することで、ハーレムが崩壊し物語が終わります(「罪の自覚」)。


一応ハーレムを売りにした作品のはずなのに、妙にハーレムに対する後ろめたさというか、自己否定的モラルのようなものがあるのが赤月みゅうと作品の面白さです。



【罪のないハーレム】


『リンガフランカ!!』も、ほとんど以上に挙げた「赤月流ハーレムの法則」に沿った作品と言っていいでしょう。
108人の美少女が登場し(<ゾンビとしての美少女>)、主人公を取り巻きセックスを迫るわけですが、結局このハーレムを運営しているのはペディという少女であり(<ズレた中心>)、美少女たちと主人公の生殖は彼女の完全な制御下にあります(<管理ハーレム>)。


そういうわけで、本作も基本的には今までの赤月みゅうと作品の延長線上にある作品だと言えます。これを「同じテーマへのこだわりが凄い」ととらえるか、「依然と同じような話で飽きてしまう」と捉えるかは人によって分かれるところでしょう。個人的な感想としては、クオリティは高いなと思いつつ、さすがにやや食傷気味かなというのが正直なところです。


ただし今までから変化した部分はないのかといえばそういうわけではなく、今まで赤月ハーレム作品のエンディングのコアをなしていた「罪の自覚とハーレムの破壊」という要素が本作からはすっぽり抜け落ちていた点は、新しい部分かなと思いました。


オチにかかわるので詳述はできないのですが、本作においては島の支配者であるペディが徹底的に悪の象徴として(そして対立するカルアが善の象徴として)描かれ、主人公は彼女の企みに巻き込まれるだけです。それゆえに、ハーレムのもつ問題が追求される段になったとしても、主人公の中の罪が問われるという展開にはならないのですね。


そのある種の能天気さに保証される形で、本作の終わり方は「ハーレムを破壊し、ハーレムの外に出る」という赤月みゅうと作品の王道を崩して、「外の世界に迷惑をかけないように、ハーレムそれ自体を外に出す」というものになっています。
ハーレムの中にある問題、主人公の中にある問題、そういった赤月作品の「暗さ」の基底をなしていたものにはあまり重きが置かれなくなっており、楽しくハーレムし続けよう!というような比較的明るいラストです。ハーレムものとしては逆に王道回帰かもしれませんね。



【コマ割りの実験】
ここまではシナリオ面の話をしてきましたが、本作は漫画表現の面でもいままでにない工夫がなされています。
一例としてフェラシーンのコマ割りを2ページ分取り上げましょう。
CCI20160709.jpg
CCI20160709_0001.jpg



以上の例では、フェラの様子をミドルショットでとらえたコマと、舌や口の動きをアップでとらえたコマが繰り返し映されています。
「ミドルショットで情景全体を説明した後、特定部位のアップで身体感覚を読者に訴える」というコマ構成はエロマンガでは極めて一般的なもので、私は個人的に「大小コマ」と呼んでいます。
大小コマ
↑大小コマの一例。たけのこ星人『カクセイ彼女』「君はメイドでしかない」より


ただし通常の大小コマとリンガフランカのコマ構成の違いは、通常の大小コマでは(その名前に示されるように)ミドルショットが大きく、アップが小さくスペースを割り当てられるのに対して、リンガフランカから取ってきた例ではどちらも均等に小さめのコマになっているということです。


大小コマの通常の割り方においては、大きいコマで長めに時間が流れ、小さいコマでは短めに時間が流れる印象を与え、メリハリの効いたリズムが生まれます。一方、リンガフランカの例ではあたかもわんこそばのように間隔短く一定のリズムがキープされて情報が読者に提示されます。


結果としてリンガフランカの例では、主人公の快感が、段階を踏んで少しずつ高まっていく様子が、コマの生むリズムを通して読者にヴィヴィッドに伝わるようになっています。また、長い長い溜めを作ることで、絶頂シーンにおける大ゴマでの「解放」が強調される効果も生んでいます。



【まとめ】


というわけで、シナリオ・表現の両面から、『リンガフランカ!!』がこれまでにない実験を行っている点を論じてみました。


シナリオ面でみると、本作は結局オチの部分で明るいハーレムものとしてまとまっているので、ハーレム好きな人は今までの赤月作品以上に楽しめるのではないかと思います。ただ私個人としては、前作『なつみつハーレム』における、新機軸と旧来の赤月要素の間の軋みの面白さを思うと、本作はちょっとまとまりすぎかなというところです。むしろ表現面で本作を楽しむことができました。

「一線」はなぜわかりにくいのか(そして、なぜわかりにくさが面白いのか)

もしも私が「あらゆるエロ漫画短編の中でもっとも面白い作品は何か?」と聞かれたら、世徒ゆうきの「一線」(『ストレッタ』所収)だと答える。


「一線」は22ページの短編エロ漫画である。ヒロイン「かぬえ」が、義理の弟である「ひのと」を性的に誘惑する。二人はすでに愛撫や口淫で関係を持っているのだが、姉は「一線」を超えようと持ちかける。あらすじだけみれば平凡な作品である。


にも関わらず「一線」が魅力的なのは何故か?それをこの記事で説明したいと思う。予め結論だけ述べておけば、語られる話の内容そのものではなく、「語られ方」にこそ、「一線」の魅力がある。「一線」は、定型的な近親相姦ストーリーを異様にわかりにくく語る。しかしただわかりにくいだけでは駄作になってしまうだろう。本作の「わかりにくさ」には意味がある。「わかりにくさ」による演出効果が、本作を傑作としている。



・冒頭部の場面転換


まず本作の「わかりにくさ」の一部を伝えるために、冒頭の四ページを掲げることにしたい。

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繰り返しになるが、この四ページは本作の冒頭部であり、これ以前に一切の状況説明は存在しない。従ってもしあなたがこの四ページを初めて読んでいるとしたら、それは本作を初めて読む読者と同じ経験をしていることになる。


おそらく多くの人が、この四ページをすらすらと読むことができないのではないだろうか。途中で何度か、「これは前のコマとどうつながっているのか?」と、立ち止まってしまうはずである。


もう少し具体的にこのわかりにくさを説明しよう。このわずか四ページには、全部で四回の場面転換が存在している。それぞれ、A、C、E、Fとラベリングしたコマにおいて、それ以前のコマから時系列の断絶したシーンが開始されている。それぞれのシーンを整理すると次のようになる。


1.冒頭部からAの直前まで……二人が親の目から隠れてキスしているシーン、場所は不明
2.AからCの直前まで……二人が母親と会話しながら朝食を食べているシーン、場所はリビング
3.CからEの直前まで……かぬえがひのとのパンツにつばを垂らすシーン、場所は不明(背景から1とは別の場所と推察できる)
4.EからFの直前まで……二人が母親と会話しながら朝食を食べているシーン、場所はリビング
5.F以降……二人が登校しているシーン、場所は電車


時系列的には、
3→2→4→5
と並んでいる(1がどこに入るかは不明)。


つまり、たった四ページで五つもの場面が示され、さらに時系列もシャッフルされているわけである。これだけでも非常にわかりにくい。だが、この四ページのわかりにくさには、より大きな原因が別にある。それは、個々の場面転換の仕方である。


Fの場面転換を他の場面転換と比較してみよう。Fにおいてはまず、前のコマとの間に比較的広めの余白が開けられ、これが「場面転換が起こっている」記号として機能している。さらにFは、二人が乗る電車をロングショットから捉えたコマであり、これまでとは違う場所にシーンが移行したことを説明している。こうした丁寧な仕掛けによって、Fの場面転換を場面転換として読み取り、どんな場面からどんな場面に移ったのかを理解することにはそれほど困難がない。


これに比べると、A、C、Eは遥かに不親切である。まずCの転換を見てみよう。Cと前のコマの間には、Fのような広めの余白は取られていない。また、Cは顔のクローズアップなので、前のコマから別の場所に移行したということをこのコマから読み取ることも困難である。このコマでリビングからの場面転換が発生したことを知ることができるのは、Dにおいてロングショットでリビング以外の光景が示され、加えてDとCの連続性を読者が見て取った時が初めてである。


Eも同様である。Eと前のコマの間にも広い余白はない。加えてEは脚のクローズアップなので、場所が変わったことが読み取れない。極め付けに、Eの擬音(「グリグリ」)が直前のコマにはみ出しているために、Eは前のコマと連続性を持っているかのように感じられる。以上の特徴が、Eの場面転換を読み取ることを困難としている。


Aについては余白自体は広めに取られているが、サンドイッチのクローズアップなので、コマの内容から場面転換を推理するのは困難である。さらに、直前のコマまでで提示された疑問文「(私達にキスは許される?)粘膜の接触、体液の交換」に対して台詞のあるコマが続くので、一見すると直前のコマの会話がAまで続いているように見えてしまう。こうした事情から、Bのコマを読むまでは、Aで行われた場面転換を理解するのは難しいだろう。


このように、A、C、Eの場面転換は、Fの場面転換に比べて、「場面転換が起こっている」ということを示す仕掛けが欠けており、圧倒的に読み取りにくくなっている。ここで注目すべきは、同じ漫画の中にFのようなわかりやすい場面転換と、A、C、Eのようなわかりにくい場面転換が混在しているということである。つまり、世徒ゆうきは、技量不足のためにA、C、Eのような場面転換を書いたわけではない。そこには意志が働いている。ではなぜ、世徒ゆうきはこのような理解困難な場面転換を採用したのか?


作者自身の意図を知ることは私にはできないが、私は次のように推察する。作者は、この二ページの場面転換をあえてわかりにくくすることによって、姉弟の性的に爛れた生活が、母親を目の前にした日常の場面にまで侵食していること、性と日常の間の境界が混乱していること、を強調したかったのではないか。そのために、1、3のような露骨に性的なシーンと、2、4のような(表面上)日常的なシーンの間の境界を、読者が混乱するように仕向けたのではないか。


以上の推察が当たっているかどうかはともかく、この特殊な場面転換が本作の冒頭に異様な緊張感をもたらし、姉弟の間の性的関係の異常性・背徳性を演出する効果をもたらしていることは間違いがないように思われる。このわかりにくさは単なるわかりにくさではなく、意味があるわけだ。



・切り詰められた台詞



「場面転換のわかりにくさ」はこれくらいにして、別種のわかりにくさに話題を移そう。本作の説明台詞の少なさである。


すでに掲げた二ページの中でもこの特徴は見て取れる。もしも「義理の姉が弟に一線を越えるよう誘惑する」話を短編において描こうとするならばまず、この二人が義理の姉弟であり、性的な関係を持ってはいるが、一線を超えることを躊躇している……というような基本設定を冒頭で手際よく語って見せなければならない。普通こうした内容は、回想シーンに説明台詞を交えて提示される。


本作も、冒頭四ページで以上のような基本設定を語りきってはいる。が、ここには説明台詞も回想シーンもない。まず、二人が義理の姉弟であることは直接語られず、「ゴメンなさいね~」「そんな、家族が増えて~」という台詞から推理しなければならない。さらに、二人が性的な関係にあることは、台詞ではなく絵で示される。そして弟の躊躇は、「私達にキスは許される?」という姉の挑発的な問いかけによってやはりあくまで間接的に語られる。


別の例を見よう。次のページを見て欲しい。


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これは二人が登校した直後のシーンである。このシーンでは、

・かぬえはひのとを単に弄んでいるのではなく、彼に純粋な愛を感じているらしいこと
・ひのとは「君葉さん」という女性に恋しているらしいこと
・かぬえが君葉に嫉妬していること

という三つの情報(三角関係)が提示されている。


だが、このどれひとつとして台詞で直接的に描写されることはない。かぬえのひのとへの思いは彼女の表情(赤く染まった頬)によって語られ、ひのとの君葉への思いはひのとの君葉への呼びかけのフォント(大きな文字)によって語られ、かぬえの君葉への思いもやはり表情(冷たい目)によって語られている。


このように本作においては、基本設定や人物の心情が台詞によって説明されることがほとんどない。我々は表情や描写、何気ない台詞をもとにして、話の内容を推理することを要求される。これが、本作の持っている第二のわかりにくさである。


無駄な説明台詞を排していることはもちろん、それ自体明らかな美徳である。だが、第一のわかりにくさと同様、第二のわかりにくさもまた、それ自体を目的とするものではなく、別の演出効果を持つ。説明台詞を排することによって、我々はキャラクターの一挙手一投足、一言一言を捉えて、その意味、重み、表現するところを考えるよう誘われる。有り体に言えば、一つ一つの描写の重みが増してくるのである。このように描写の重みを増すことは、本作のラストシーンを成立させるためには必要不可欠である。そのことを、節を改めて論じよう。



・ひのとの一言


本作はミステリ的な構造を持ち、最後にちょっとしたどんでん返しが起こるようになっている。ネタバレを防ぐために詳しくは書かないが、本作のオチは、ひのとが発したある一言が、二人の関係を決定的に変えてしまう、というものである。


ひのとの「一言」こそが、本作で最も難解なところである。かれがなぜこの「一言」を発したのか、なぜこの「一言」が二人の関係をこうまで変えてしまったのか、そのことは台詞によって説明されないだけでなく、手がかりになる描写もほとんどない。読者は寄る辺ない空白に投げ出されたまま、その「一言」を発したひのとの思い、その「一言」を受けたかぬえの気持ちを自分で考えるように誘われる。この読者の想像力をかきたてるラストこそが、本作の最大の魅力である。


そして、このラストに照らしてみれば、本作が説明台詞を徹底的に排さねばならなかった理由がわかる。このラストが機能するためには、読者がひのとの「一言」について必死に考えるような態度を持っていなければならない。そのためにこそ、説明台詞を排し、ひとつひとつの描写の重みを増しておく必要があったのだ。基本設定すら断片的な描写から推理しなければならない状況に置かれているからこそ、読者はラストに空いた「空白」を自分で埋めるよう誘われるのである。



・最後に


以上、「一線」の魅力を、特殊な場面転換による姉弟間の関係の異常性の演出と、説明台詞を排したことによる想像力の刺激、という二点から説明してきた。「一線」はわかりにくい作品であるが、その「わかりにくさ」は、この物語の面白さを引き出すために必要なものなのである。


エロ漫画はその機能性を高めるためにとにかく「わかりやすい」作品が多い。その中にあって「一線」は特異な輝きを放っている。「一線」を読む経験は、「自分は何か他のエロ漫画と違うものを読んでいる」、という興奮と緊張に満ちている。

この山文京伝がすごい!ベスト5

私、機能性重視は友人と成人向け漫画を語るツイキャス「エロマンガ夜話」をやっております。
前回のエロマンガ夜話では山文京伝先生の『沙雪の里』を扱いました。
で、10月後半はその準備のため、「山文京伝マラソン」と称し、その独特すぎる絵柄周到な熟女調教描写で有名な山文京伝先生の単行本を、重複を除いて全18冊読んでました。





読んだ単行本を名前だけ並べてみるとこんな感じ。

コアマガジンから刊行されているのもの(14冊)……
『灼熱の炎』(1995年)
『10after』(1996年)
『Sein』(1999年)
『窓のない部屋』(2000年)
『砂の鎖 1』(2001年)
『砂の鎖 2』(2005年)
『READINESS』(2008年)
『蒼月の季節』(2008年)
『沙雪の里』(2011年)
『緋色の刻 完全版』(2012年)
『マゾメス』(2013年)
『冬の紫陽花』(2013年)
『七彩のラミュロス 1』(2015年)
『七彩のラミュロス 2』(2015年)



フランス書院から刊行されているもの(4冊)……

『禁断の方程式』(1995年)
『頃刻の迷夢』(1996年)
『おねーさんとあそぼうっ!』(1997年)
『笑顔のすべて…』(2000年)


『緋色の刻』や『ラミュロス』の旧版はマラソン対象から外してます。


いや、大変だった…
まず2000年代前半以前の単行本は初読だったのでじっくり読まなければならないし、
2000年代後半からの単行本は一度読んでいたとはいえ、良くも悪くもワンパターン様式的なので連続して読むのが辛い。
最後に『冬の紫陽花』を読んでいた時はエロさ以上にゴール直前の達成感を感じてました。



[ベスト5]

さてせっかく18冊も読んだのに2時間ツイキャスしただけで終わらせるのが残念なので、ここで極私的な山文京伝単行本ベスト5を発表したいと思います。
山文京伝のハードコアファンからすれば私なんか超にわかだと思いますが、いちおう一言二言解説もつけてみましたので、これから山文京伝先生の単行本を読もうという時にでも参考にしてください。

第五位 『灼熱の炎』(1995)


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おそらく山文先生の長編で最もストーリーに優れているのがこの『灼熱の炎』でしょう。
基本的には『砂の鎖』以降コアマガで書き続けられている熟女調教系作品と同様のプロットですが、本作で光っているのがヒロイン以外のサブキャラクターたちの物語。
全てのサブキャラクターの思い・願い・欲望に一気にケリをつけていく終盤の展開は圧巻。「読める」エロ漫画です。




第四位 『READINESS』(2008)

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『Sein』(1999)を受け継ぐ催眠系長編作。催眠調教を受ける女刑事の物語です。
本作の最大の美点は、催眠によって<自分で調教を受けていることに気付かずに>調教されてしまうというシチュエーションでしょう。エロとしてはもちろん、サスペンスとしてもこの設定を活かしきっています。
また、引き出されてしまった欲望・開発されてしまった身体を受け入れながら、それでも前向きに生きていくハッピーエンドがなかなか新鮮です。



第三位 『窓のない部屋』(2000)
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短篇集です。山文京伝先生の本質は、調教描写よりも、しっかりした構造を持ったプロットを作る構成力にあるというのが私の考えです。この特徴は長編よりも、本作のような短篇集の方が見やすいでしょう。
特に本作と次の『笑顔のすべて…』は傑作が多く収録されています。『笑顔のすべて…』に比べると、調教エロスをテーマにした作品が多いでしょうか。
短編「Silent」はたった4ページでありながら、明快な起承転結と様々な解釈を許す深みをもった作品で、非エロではありますが、ぜひ読んでみていただきたいです。



第二位 『笑顔のすべて…』(2000)
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『窓のない部屋』と同様の短篇集です。こちらはレズ・SF・怪奇・お仕事ものなどなど、よりバラエティ豊かな作品が収録されています。
とにかくこの単行本は収録されている短編のクオリティがただごとではないです。ちゃんと起承転結があって、びっくりするようなオチがあって、後に引きずる余韻もある。短編漫画のお手本のような作品がずらずら並んでおり、エロ目的でなくても十分読めます。
個人的なお気に入りは快奇色の強い「LOVER」。わずか8ページながら、「女性を調教して思い通りにしたい」という欲望の自己中心性を鋭く撃つ傑作です。



第一位 『沙雪の里』(2011)
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いろいろ読みましたがやっぱりこれが1位。田舎の性習俗に母親が染められ・寝取られていく長編作です。
孕ませ・妊婦・母NTRなどなどのシチュが個人的趣味に合致するというのが気に入っている最大の理由だったりもするのですが(おい)、それを別にしても、読み手に与える「嫌な感じ」「鬱感」において本作を超えるのは難しいのでないでしょうか。
「田舎の習俗」という社会的な隠れ蓑の裏で渦巻く、個人を「同級生の母を奪いたい」「弟を自分のものにしたい」という極めて個人的な欲望と悪意の醜悪さを描き切った暗黒の名作です。


というわけで、個人的な山文京伝ベスト5でした。
特に『笑顔のすべて…』は絶版になってしまった上に電子化もされていないので埋もれてしまいがちですが、是非とも読んでいただきたい名作です。



なお単行本を集める手段ですが、コアマガジンから刊行されている単行本は、ほとんど電子書籍で買えます。特に、絶版になっているやつもこれで手に入ります。
フランス書院から刊行されていたやつは絶版になってしまった上に電子化もされていないようなので、古本を買うしかないのが現状です。

ロード・オブ・トラッシュの謎(追記あり)

私機能性重視は友人たちと成人向け漫画を語るツイキャス『エロマンガ夜話』をやっているのですが、次回はA-10先生の『Lord of Trash』を扱うことにしました。




そこでツイッターで告知を書いたのですが、メンバーの1人から、

「LordじゃなくてLoadだよ」

という指摘が。

えっ、記憶違い?と思って調べてみると、ちょっと面倒な事情が明らかになってきました。



[コアマガ版のタイトルは?]
どうやらこのコミックスのタイトル、web上だと各種媒体で表記に違いがあるようなんです。

AmazonDMMDlsite国会図書館だと全て「Lord」表記
コアマガジン公式Wikipediaでは「Load」

しかし表紙はどうみても「Lord」ですよねえ…

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というわけで決定的な証拠を得るために手元の単行本の奥付を確認。

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奥付は「Lord」ですね。よかったよかった。

しかし、コアマガジン公式やWikipediaが「Load」表記にしたのは何故か…?みんな揃ったスペルミスをしちゃったんでしょうか…?
いや、実はどうやらそういうわけでもないっぽいんです。



[ビブロス版のタイトルは?]
コアマガジン版の『Lord of Trash』は、今はなきビブロスから出た作品の完全版なのですが、このビブロス版のタイトルは、ほぼどの媒体を見ても『Load of Trash』なんですね。

たとえばAmazonもそうだし、国会図書館もそうです。そして何より表紙が、

loadoftrash.jpg

どう見ても「Load」です。

ビブロス版は持っていないので奥付を確認できず、従って確言ができないのですが、どうやらこちらのビブロス版の正式タイトルが『Load of Trash』であり、これに引きずられてWikipediaやコアマガジン公式がコアマガ版のタイトルを間違えてしまったものと思われます。



[どうしてこうなった]
ではタイトルが変化したのはなぜか?

コアマガ版のコミックスを見ると、ビブロス版の単行本が「Lord of Trash」というタイトルで(何度も)言及されています。このことから察するに、ビブロス版の段階ですでにA-10先生は「Lord of Trash=がらくたの王」という意味のタイトルを意図していたにもかかわらず、ビブロス版が作られる段階の何処かで誰かがスペルをミスって「Load of Trash」になってしまったのではないでしょうか。

以上はあくまで推理ですので真の事情はわかりませんが、とりあえず次回のツイキャスでは新版は「Lord of Trash」、旧版は「Load of Trash」と呼んでいきたいと思います、音が一緒なんでツイキャスだとどっちでも変わらないんですけど。



[11/04追記]

この記事を書いた翌日、A-10先生自身からツイッターで事情をご説明頂くことができました。







というわけで、A-10先生のお話に基づく限りでは、やはり私の推理が正しかったようです。
音が同じでありかつ「Lord」「Load」のどちらでも意味が通るので、間違えやすいのは確かですね。
みんなも誤字には気をつけよう!(よくわからないオチ)
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